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2024年12月3日の夜10時過ぎ、韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領は「北韓(北朝鮮)共産勢力の脅威から自由大韓民国を守護」「破廉恥な従北反国家勢力を一挙に剔抉(てっけつ)」「自由憲法秩序を守る」などの理由を挙げ非常戒厳を宣言した。
ドキュメント 非常戒厳宣言から解除まで
韓国で最後に非常戒厳令が宣言されたのは1979年朴正煕(パク・ジョンヒ)元大統領の暗殺事件から1981年まで。非常戒厳の下で1980年5月、5・18光州民主化運動が起きた。その当時、戒厳軍が何をしたのかを知っている人たちは黙っていられなかった。
12月3日夜、非常戒厳令宣言からすぐ国会議員らは非常戒厳令を解除するため、市民らは国会議員を守るため、戒厳軍は国会の出入りを封じるため、国会に集まった。国会議員の半数以上が賛成すれば大統領は戒厳令を解除しなければならない。市民らは戒厳軍の装甲車の前に座り込んで足を止め、銃を持った戒厳軍が国会に入ろうとするのを体当たりで止めた。国会議員らは戒厳軍を避けて塀を越えて国会に入り、議員秘書らはスクラムを組んで国会本会場前を守った。
韓国内では、深夜にもかかわらず市民を国会に集めたのは、2024年10月にアジア女性として初めてノーベル文学賞を受賞したハン・ガンの小説『少年が来る』がベストセラーになり、2023年に映画『ソウルの春』(日本では24年に公開)が興行1位だったことも影響したという分析があった。『少年が来る』は5・18光州民主化運動、『ソウルの春』は1979年の全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領の軍事クーデターという実話を題材にした作品で、あの独裁時代に戻ってはならないと非常戒厳に反対する声が大きくなったという分析だった。
夜11時過ぎ、戒厳司令部が布告令第1号を発表した。布告令第1号は6項目から成っており、▶国会と地方議会、政党の活動と政治的結社、集会、デモなど一切の政治活動を禁じる、▶自由民主主義体制を否定したり、転覆を企てる一切の行為を禁じ、フェイクニュース、世論操作、虚偽扇動を禁じる、▶すべての言論と出版は戒厳司令部が統制する、などとしている。そして、この布告令違反者に対しては「戒厳法第9条により令状なしに逮捕・拘禁・押収捜索ができ、戒厳法第14条により処断する――など、言論の自由がなくなるという内容だった。
12月4日午前0時45分過ぎ、戒厳軍は窓ガラスを割って国会に入り、戒厳令解除を決議する国会本会議場前まで迫っていた。同0時48分、国会本会議場では非常戒厳解除要求決議案の本会議が始まり、在席した議員190人全員が賛成、午前1時過ぎに可決した。放送局や新聞社の記者は国会に集まり、この一部始終を報じた。YouTuberたちも国会周辺で何が起きているのかライブ配信を行った。午前4時過ぎ、尹大統領は国務会議を開き非常戒厳解除案を議決した。
非常戒厳下でメディアは
非常戒厳宣言から解除までの間、ジャーナリストたちは布告令第1号違反で「処断」される可能性があることを知りながらも取材を続け速報を出し続けた。光州地域の新聞社は、5・18光州民主化運動の時は戒厳軍によって真実を報道できなかったが、今度こそは言論の自由を守りたいと非常戒厳宣言後すぐ社内のすべてのドアを施錠し号外を制作したという。5・18光州民主化運動の記録の一つに、戒厳司令部が赤ペンで削除するところを記入した印刷前の新聞編集版が残っている。
12月4日未明、韓国言論団体は尹大統領の下野を求める共同声明を発表した。「非常戒厳宣言は国民が血で書いた民主主義と言論自由の半世紀の歴史的成果と憲法を否定する暴挙」「時代錯誤で反憲法の内容ばかりである布告令により、尹政権は正常軌道から外れた独裁政権であることを自ら明かした」「われわれ言論人は大韓民国の民主主義と言論の自由を守るため尹政権の暴挙に立ち向かい国民とともに最後まで抵抗する」とした。
12月4日朝刊は、どの新聞も尹大統領の非常戒厳宣言を批判する社説を掲載した。韓国はメディアが野党支持の進歩派と与党支持の保守派に分かれ、同じ案件に対して全く違う分析をすることが年々増えてきた。進歩派メディアは与党を批判し、保守派メディアは野党を批判する。対立していた進歩派と保守派のメディアが、言論の自由、表現の自由を失いかけた非常戒厳宣言に対してはあってはならないことだと同じ立場を示したのだ。
12月5日には国境なき記者団も声明を発表した。
●戒厳令が直ちに解除されていなかったら、尹大統領はメディアを検閲し、メディアが発信する情報を統制する権限を持てただろう。尹大統領は就任以来、自分を批判する者に対する敵意を露にしてきたことを考えると、戒厳令は特に憂慮すべきことである。
●尹大統領は政権に批判的なメディアを繰り返し攻撃し、その報道をフェイクニュースだと退けてきた。与党「国民の力」は、進歩派の番組があったラジオ放送局TBS(交通放送)が政治的に偏向しているとして、同局への補助金を打ち切るなど、特定メディアに対する懲罰的措置を支持してきた。
●韓国政府によるジャーナリストに対する名誉毀損訴訟も前例のないレベルにまで増えた。韓国では名誉毀損は最長7年の懲役刑に処せられるため、多くのジャーナリストは法的紛争を避けるために自己検閲を迫られている。
●われわれはすべての機関および政治指導者に対し、この機会を利用して報道の自由へのコミットメントを再確認し、国境なき記者団が近年観察してきた言論の自由の悪化と戦うことを誓う。
といった内容だった。国境なき記者団が毎年公開する世界報道の自由度指数をみると、韓国は2022年の43位から2024年は62位に下がった。
12月14日、国会では尹大統領の弾劾が議決された(冒頭写真は2024年12月14日韓国国会議事堂前、尹大統領の弾劾を求める集会:筆者撮影)。検察当局は2025年1月26日、尹大統領を内乱を首謀した罪で起訴した。大統領には不訴追特権があるが、内乱罪は例外である。内乱を首謀した者の法定刑は死刑や無期懲役、無期禁錮である。内乱罪の刑事裁判は2月20日に始まる。
その前に憲法裁判所では尹大統領の弾劾審判の公開弁論が行われた。ここでは非常戒厳令宣言の前後で何があったのか軍や国家情報院などの証人らが証言している。検察の起訴状も公開されたが、起訴状の内容で驚いたのは、尹大統領が当時の行政安全部(「部」は日本の「省」に当たる)李祥敏(イ・サンミン)長官に放送局2社、新聞社2社、世論調査会社1社を封鎖し、断電と断水を指示したという点である。韓国内では消防関係の証言から、この放送局と新聞は与党に批判的な進歩派といわれる地上波放送局のMBC、総合編成チャンネル(有料放送向けチャンネル)JTBC、京郷新聞とハンギョレ新聞といわれている。MBCは断電と断水で言論の機能を麻痺させようとしたのは憲法が定めた言論・出版の自由を否定することだと指摘した。
非常戒厳令下の報道の課題 障害者、一般市民は……
一方、非常戒厳令宣言の報道をめぐっては緊迫した状況だからこそ障害者に配慮した報道をすべきだったという課題が残った。12月3日に尹大統領が非常戒厳令宣言した際、手話放送を行ったのは公共放送のKBSのみだった。
1980年の光州民主化運動当時、戒厳軍によって犠牲になった2番目の被害者は聴覚障害のある男性だった。人々が戒厳軍から逃げ回る中、親戚をバス停まで見送った帰り道、男性は何が起きたのかわからず戒厳軍に捕まり、耳が聞こえないと訴えたが、言うことを聞かないと暴行され亡くなったという。2024年12月3日、テレビの生放送に大統領が登場し非常戒厳という字幕があるのに内容がわからず、聴覚障害のある人たちはとても怖かったという。ニュース画面の下にある非常戒厳令宣布という字幕をみて北朝鮮が攻めてきたのかとびっくりしてインターネットを検索したという聴覚障害者もいた。韓国にはAI手話通訳アプリもあるが、日常的によく使う文章にのみ対応しているため戒厳という非常事態には使えなかった。テレビに流れる音声をAIが自動で字幕にする機能があるテレビも販売されているが、まだ一般的に普及していなかった。
KBS以外のチャンネルがニュースの手話放送を始めたのは戒厳令が解除された後だった。韓国では手話放送は全編成時間の5%以上であればよいことになっている。
6時間で解除した非常戒厳令だが、一般市民の生活にも大きな影響を残した。12月はクリスマスや忘年会などで消費が増える時期にもかかわらず、統計庁によると2024年12月の宿泊・飲食業の消費は前月比3.1%減少、小売り販売額は同0.6%減少した。社会的不安から忘年会をキャンセルした企業が多く、非常戒厳令宣言により韓国は危険だとして海外観光客の訪問が減少、芸術やスポーツ分野も消費が減少した。また年末年始は各種キャンペーンでテレビや新聞などメディアの広告収入が増える時期であるが、非常戒厳令により広告市場も凍りつき、テレビ局と新聞社の経営も厳しくなるとみられている。
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韓国言論団体は2月17日、非常戒厳令を迅速に解除し言論の自由を守ったとして禹元植(ウ・ウォンシク)国会議長に感謝の牌を贈呈した。韓国では尹大統領の弾劾審判に続き内乱罪の刑事裁判も始まった。政治混乱は続くが言論の自由を守ろうとする声は日に日に大きくなっている。
2025/02/25
ITジャーナリスト/KDDI総合研究所特別研究員
趙 章恩(チョウ・チャンウン)
民放online
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