サムスン電子の究極の青田刈り

2007年から韓国の私立大学2校に携帯電話学科が新設される。サムスン電子は96年からサムスンが財団になっている「成均館(ソンギュングァン)大学」と提携し、2007年1学期から水源(スウォン)キャンパスで携帯電話学科大学院を設立運営することにした。毎年修士課程40人、博士課程12 人を募集する。7~11月行われた選考では1次12人募集に99人、2次28人募集に266人が志願し、9.1の倍率となった。他の学科に比べ5倍近い競争率となった。

合格すれば授業料免除、生活補助、卒業後の就職も保証


 ものすごい競争率の秘密はサムスン電子の破格な優遇にある。合格さえすれば授業料全額免除、毎月100万ウォン以上の生活補助費が支給され、卒業すればあの憧れのサムスン電子情報通信総括に入社、携帯電話関連研究開発(R&D)の業務を任されることになる。サムスン電子は大卒新規採用の給料が高いことでも有名で、キャリアのSKテレコムと並び、最も入社したい企業の1、2位を争っている。サムスン電子の携帯電話は「Anycall」というブランドで販売されている。8月には世界で初めて4Gを発表するなど、技術開発力を強化している。韓国国内では、高品質高価格路線が成功し、他の携帯より2倍はする値段にもかかわらずシェア1位をキープしている。中国でもAnycall携帯が富裕層のステータスのようになっていて、コピー携帯もかなり出回っているそうだ。


 これだけの待遇だからやはり入学試験はサムスン入社試験よりも難しかったらしい。書類審査、教授面接、サムスン職務能力試験(SSAT)、サムスン電子面接の 4つの関門を突破しなくてはならないが、特に面接とSSATは新入社員面接と同じレベルで、大学での成績がオールAで、TOEICで満点を取った人も落ちたほどだ。


 携帯電話学科は、Human Interface、Connectivity、Embedded Software、Mobile Platform、Mobile Healthの5つの研究グループで構成される。チェ・ヒョンジン携帯電話学科長は「部品の製造方法ではなく、どのような組み合わせで最高の携帯電話を作れるのかというシステム技術を研究する大学院。研究だけに没頭できるようサムスンも学校も支援を惜しまないつもりなので、その分携帯電話狂いともいえるレベルの高い学生が集まってほしい」と述べた。サムスン電子のシニア研究員や役員も各研究グループ別共同指導教授として参加し、選考から論文選定、審査、進学、就業指導を担当する。カリキュラムの詳細な運営などすべてをサムスン電子と大学側が協議して決めることになる。また学生らは在学中からサムスン電子のプロジェクトを遂行することからも、現場と大学教育の距離を幾分縮められるのではないかと期待されている。


 韓国でも学科名から「携帯電話学科」と名前がついたのはこれが初めて。去年246億ドルの輸出を記録した携帯電話は韓国全輸出の8.6%、IT関連輸出の22%以上を占める主力産業だが、今まで専門の人材を育成する大学はなく、電気・電子、電算、機械、コンピューター専攻など多様な分野から採用してから時間と費用をかけて再教育しなければならなかった。


会社の機密資料も教材に


 サムスン電子と成均館大はサムスンが財団になった96年、半導体システム工学科を新設している。博士クラスの研究員が講義に参加し、即戦力のある人材養成に力を入れ、画期的な産学協同カリキュラムと評価されてきた。会社の機密資料が教材として利用され、3年生からは現場実習もする。卒業後はサムスン電子入社が保証され、授業料、教材費全額と生活費が支援された優遇策は韓国では初めて。その魅力に引かれて、全国から秀才が集まり、合学者一人一人がマスコミに紹介されたほどだった。成均館大は「企業に牛耳られるみっともないサムスン大学」と嫌がらせをうけたこともあったが、今ではサムスンの惜しみのない支援のおかげで全国から成績上位3%以内の優秀な学生が集まる名門大学へ成長できた。


 サムスン電子は成均館大のほか、全国の名門大学14校と情報通信トラック(Track)を組み、授業料全額支援で優秀な人材を優先的に確保している。さらに、工学部を対象に3年生までにサムスン電子が要求する教養科目と、4年生の1年間はコンピューター通信ネットワーク、コンピューター通信システムといった「情報通信トラック科目」の中から2科目以上単位を取った学生を採用で優先する。これは、年間1000人以上の学生が対象となっている。


 一方で、サムスン電子は各大学に教科課程開発費2億ウォン、機材費2億ウォンに、毎年追加で4千万ウォンずつ5年間で2億ウォン、機材交換費1億ウォン、合計5年間7億ウォン(約9000万円)を支援する。大学別成績優秀者20名には1年間1000万ウォンの奨学金を支給し、入社が保証する。サムスン電子情報通信総括は年間2000人を採用しているが、2007年からは情報通信トラックの卒業生から60%ほどを採用する計画だ。これだけの労力をかけることで、サムスン電子としては自社のニーズにぴったりあった人材を大学からオーダーメイドのように供給をうけるわけだ。


 さらに、サムスン電子は人材確保先を広げようとしている。これは次回、ご紹介しよう。


(趙 章恩=ITジャーナリスト)

日経パソコン
2006年11月21日

-Original column
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/NPC/20061121/254329/

プロゲーマーは芸能人より人気?

前回はプロゲーマーの徴兵問題を取り上げた。今回は、韓国におけるプロゲーマーの存在感の大きさを改めてご紹介したい。韓国のプロゲーマーは80年代に人気を集めた日本のファミコン名人とは全く違う存在だと思っていい。NYタイムズは2006年10月7日、オンラインゲームに熱狂する韓国の様子を紹介しながら、「イム・ヨファンのような有名プロゲーマーはニューヨークヤンキースのデリック・ジータのような人気者」、「韓国でStarCraftを知らないのはアメリカでプロフットボールチームのダラスカウボーイを知らないのと同じ」と報道した。(韓国ではデリック・ジータって誰?って反応だけど)

大手企業がプロゲームチームを運営


 9月現在韓国Eスポーツ協会に登録されているプロゲーマーは260人を超えている。大手企業がスポンサーとなっているプロゲームチームは11もある。三星電子は「カーン」、キャリアのSKテレコムは「T1」、KTFは「MagicNs」といったプロゲームチームを運営している。リーグ戦での優勝は企業の売上とイメージに直結する。このうち、プロチーム所属している選手は180人程度で、平均年齢23歳、年俸2億ウォン(約2500万円)は下らない。


 プロゲーマー企業の役員向けミーティングや大学で行われる特別講演の講師としても、その情熱と勝負に対する執念をテーマに話してほしいと引っ張りだこだ。デパートのチャリティーバザーでも芸能人よりプロゲーマーが特別招待されることが多く、小学生の間では医者と弁護士を追い越し、憧れの職業1位にまでなった。彼らは一日10時間以上も練習を重ね、ゲームを徹底的に研究し、パソコン用ゲームの開発にも参加している。


 プロゲーマーの人気を自治体の活気につなげようとするところも少なくない。釜山市は2004年世界大会であるStarCraft決勝戦を誘致し、 10万人の観客動員に成功した。オンラインゲーム都市というイメージも獲得できた。オンラインゲーム対戦専用競技場を設立しようとする自治体も多く、ソウル市は先月、韓国における秋葉原のような場所である竜山(ヨンサン)にオンラインゲーム競技場をオープンし、前回紹介した、プロゲーマー、イム・ヨファン選手の入隊前、最後のファンミーティング会場として公開した。


 プロゲーマー第一世代として歴史に残る人物となったイム選手は「プロゲーマーという夢を与えてくれた選手」として評価されている。「ゲーム狂いの引きこもり」、「オタク」、「社会的落伍者」といった偏見を跳ね返し、プロゲーマーの重要性を韓国のみならずアメリカ、ヨーロッパ、中国、台湾など世界に向けてアピールし、スターになった。彼の影響で所属チームのスポンサーであるSKテレコムは年間200億円(約25億円)の広告・マーケティング効果を達成しているとの分析もある。ファンクラブやキャラクター商品、出版物を入れると規模は更に倍増する。


次なるスター発掘へ


 7年間、韓国初、世界初の記録を更新し続けたイム選手は、「健康な体で軍に行ける私は幸せ者。軍を除隊して30代になってもプロゲーマーとして現役であり続けたい。大学院で勉強を続けプロチームの監督もやってみたいし、国産ゲームの開発にも携わってみたい」、「プロゲーマーほど競争が激しく自己管理が厳しい世界もない。私はゲームのために彼女と付き合うことも、大学生としての生活も諦めるしかなかった。これぞ自分が進むべき道と思った以上すべてをかけないと夢は叶えられない」とファンにメッセージを残した。


 オンラインゲーム業界では早速イム選手に次ぐスター発掘に取り掛かっているが、まだこれといった選手の名前は出て来ない。だが260人もいるプロゲーマーの中から新しいスターが誕生するのは時間の問題かもしれない。


 またStarCraft中心だったオンラインゲームのリーグ戦も韓国産ゲームであるNEXON社の「カートライダー」というレーシングゲームに広がっている。「カートライダー」はかわいいキャラクターのせいか小学生に人気のオンライン対戦ゲームなので、大会では小学校低学年の参加も目立っている。小学生がプロゲーマーなんて日も遠くないみたい。それなら徴兵問題もなく、長く選手としていられるからかえっていいかもしれない。




(趙 章恩=ITジャーナリスト)

日経パソコン
2006年11月7日

-Original column
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/NPC/20061114/253553/

第09回:高句麗が発祥の韓国代表食材「テンジャン」


予習してさらにハマる太王四神記

【第九回】

高句麗が発祥の韓国代表食材「テンジャン」




高句麗生まれの味噌、醤油



突然ですが、ここでクエスチョン。1970年代まで、韓国の家庭の常備薬はある有名な食品でした。子供の擦り傷や打撲傷、虫刺され、火傷などちょっとした傷には、これを塗って治しました。さて、その食品とは何でしょう?


答えはそうです。タイトルにあるとおりテンジャン、味噌です。


今でもおばあちゃんの知恵として、田舎では、かぼちゃの葉っぱにテンジャンを塗ったものを傷の上に載せて応急処置を施します。最初は傷がしみて痛いけれど、不思議なことにすぐかさぶたができてきれいに傷が治ります。お医者さん達は「傷や火傷にテンジャンを塗るのは逆効果だから、絶対そのようなことはしないように」と注意しますが、何百年、いや1500年以上も前から、テンジャンは食べ物でもあり薬でもありました。消化不良の時は味噌を水に薄く溶いて飲めばゲップが出てすっきりするという話は、昔々から口伝で伝わる民話にも登場します。


キムチと並び発酵食品として韓国人の食生活に欠かせないテンジャンですが、豆を発酵させて調味料に使うという発想は高句麗から生まれました。高句麗で「醤(ジャン)」、つまりテンジャン、カンジャンといった味噌、醤油を使うようになったのは、高句麗の領土であった満州と韓半島が豆の原産地だったからではないでしょうか。遺伝子や考古学的な資料から、4000年も前から韓半島では豆を栽培していたということがわかりました。「醤」というものは中国にもありましたが、韓国のテンジャンと中国の醤は作り方も違えば味もかなり違います。高句麗のテンジャンは中国にも伝わり、独特の匂いから「高麗臭」という名前を付けられたそうです。また、中国の史記『魏志東夷傳』には「高句麗人は醸造がうまい」と記録されています。



「チョングッジャン」は健康食品!



日本の味噌も歴史が長く飛鳥時代にさかのぼりますが、高句麗から伝来された豆を発酵させる方式が日本独自の原料や気候に合わせて発展し自家醸造が始まり、故郷の味として日本を代表する調味料になったそうです。味噌の語源は高句麗語でテンジャンを意味する「美蘇」「蜜祖」で、その日本語読みから「味噌」になったと、日本の百科事典や味噌関連解説書でも紹介されています。


日本の納豆のようなねばねばしたテンジャンを韓国では「チョングッジャン」と呼び、チゲにしてよく食べます。(テンジャン、テンジャンチゲについては「韓国料理大全」で紹介しています)高句麗が豆の産地だったので、高句麗人は茹でた豆を非常食として馬の鞍の下に入れて常備していました。これが馬の体温で発酵してチョングッジャンになったのがその由来です。チョグッジャンチゲは匂いがすごいので頻繁には食べられないけれど、便秘や美容にはもってこいの健康食品。粉にしたチョングッジャンを毎朝ヨーグルトに混ぜて食べたり、乾燥させたチョングッジャンにチョコや砂糖をコーティングしたものをおやつ代わりに食べたり……。便秘がひどい時はおへその周りにごま油を塗って、その上に伝統方式で作ったテンジャンをたっぷり載せてパックすると宿便が取れるなどとテレビで紹介され、ブームになりました。





  • 青とうがらしの辛味が効いたテンジャンチゲ。日本の味噌汁とは違い、沸騰させるほどに風味が増していきます。



手間ひまかけて作るテンジャン



日本に負けないほど韓国にもたくさんの種類のテンジャンがあり、家庭によって味も微妙に違います。テンジャンはやはり手作りが一番! ですが、家で作るには手間がかかりすぎます。韓国のテンジャンが中国の醤と違うのは「メジュ」を作って発酵させるところにありますが、このメジュがやっかいなんですよね。


豆を煮て潰して四角にしてわらで結び、1ヵ月ほど風通しのよいところで乾燥させます。カチンカチンになったものを30度以上のオンドルの上に置いて1~2週間ほど発酵させ、白いかびが生えてきたらメジュの完成です。かびを洗って、きれいな水と塩と一緒につぼの中に入れ熟成させます。寒い日は塩分17~18%、暖かい日は18~20%にして漬けると、45日ほどで下に沈んだ豆はテンジャン(味噌)、上の水はカンジャン(醤油)になりますが、長く熟成させるほど味がよくなるので、1年は保存してから食べます。今はキムチ冷蔵庫があるので発酵食品の保存が便利になりましたが、10年ほど前までは、高級マンションですらベランダにはずらっとテンジャン(味噌)、カンジャン(醤油)、コチュジャン(唐辛子味噌)を入れた壺がベランダに並び、韓国らしい風景を見せてくれました。


高句麗時代のテンジャンは味噌と醤油が混ざったもので、現在のような味噌と醤油を分離させたテンジャンは朝鮮時代から作られるようになりました。高句麗人はテンジャンを利用して野菜や肉を長く保存できるようにし、多彩な食材を味付けして食べるようになりました。料理はそれぞれ木を彫ったものに漆を塗った器に入れて食卓に並べ、椅子に座って食べました。


テンジャンは韓国人の食生活の基礎のまた基礎なので、工場で大量に生産されきれいにパッケージされたものより、きれいな水がある田舎で手作りされたテンジャンをお取り寄せする家庭が多いようです。地域でいうと全羅北道(チョルラプクド)の淳昌(スンチャン)が山と川に囲まれ豆の栽培が多いことから、醤類の特産地としても有名で、街中がメジュと壺だらけというほど淳昌=ジャン(醤)のイメージを持っています。



テンジャンが今に伝える高句麗文化



韓国には「●●のことは”豆でメジュを作る”と言っても信じられない」ということわざがあります。●●はウソつきだ、信用できない人だという意味ですね。「あの女性はメジュのようだ」、という言葉もありますが、これは容貌を四角くてでこぼこしたメジュにたとえ、あまりきれいでない女性という意味です。高句麗の遺跡は古墳と壁画、山城の一部しか残っていませんが、その文化や生活習慣はそのまま受け継がれてきました。


高句麗の遺産は世界遺産として登録され注目されています。韓国では1995年以降、宗廟(チョンミョ)、昌徳宮(チャンドックン)、仏国寺(プルグッサ)と石窟庵(ソックラム)、海印寺(へインサ)藏経板殿、水原華城(スウォンファソン)、支石墓(ゴインドル)、慶州(キョンジュ)歴史遺跡地区、訓民正音、朝鮮王朝実録、直指心体要節、承政院(スンジョンウォン)日記、宗廟祭礼及び宗廟祭礼楽、唱劇のパンソリ、江陵(カンヌン)端午祭などがユネスコ世界文化遺産に指定されてきました。


北朝鮮も2000年から高句麗の遺跡をユネスコに登録する準備を始め、2004年7月1日、1500年ほど前に建てられた高句麗の古墳49と、『太王四神記』でペ・ヨンジュンが演じる広開土大王の王陵碑を登録しました。これからは、テンジャンなどの高句麗の料理や食品も、無形文化財として登録されるといいですね。ドラマのロケ地としても登場する文化遺跡を訪ね、テンジャンチゲで腹ごしらえするのも『太王四神記』の楽しみ方のひとつかもしれません。



   – BY  趙章恩

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http://ni-korea.jp/entertainment/essay/index.php?id=09

第08回:ヨン様が演じる「談德」、「広開土大王」ってどんな人物?


予習してさらにハマる太王四神記

【第八回】

ヨン様が演じる「談德」、「広開土大王」ってどんな人物?






時代を超え尊敬される広開土大王



高句麗の人々は王様の強力なリーダーシップの下、開放的で進取的、挑戦的な民族性から広い世界観を持っていました。騎馬民族らしく「武」を重要と考え、乗馬、弓に優れていました。まさにそのような高句麗人の特徴をそなえた王様が、広開土大王(ファンゲトデワン)だったといえます。韓国人が好きな言葉の一つに「浩然之気」があります。開放された自由な心、広々として屈託のない雄大な気持ちという意味の言葉ですが、韓国では、今でも広開土大王の歴史から「浩然之気」を学べとよく言われるほど、広開土大王は尊敬される人物です。


広開土大王は高句麗19代目の王様で、375年に生まれ391年に18歳の若さで王になり、413年に39歳の若さで亡くなりました。広開土大王の在位期間はたったの21年ですが、この21年が高句麗の歴史はもちろん、韓半島の歴史までも変えてしまいました。その業績は414年に長寿王(ジャンスワン)が残した「広開土大王碑(中国吉林省集安県通溝所在)」の1802文字を中心とする記録に残っています。


王になる前の名前は談德(ダムドク)、生前の王名は「永樂大王(ヨンラクデワン」、死後は「国岡上広開土境平安好太王」となりました。韓国ではこの中から「広開土」の文字を取って広開土大王、日本の歴史には好太王という名前で登場します。日本の昭和、平成と同じように広開土大王は永樂という年号を使いましましたが、これは韓国で使われた初めての年号です。





  • 広開土大王を描いた肖像画。韓国では、今でも数多くの人々に尊敬されています。












広開土大王が「太王」と呼ばれた理由



名前からも連想できるように、ドラマ『太王四神記』でペ・ヨンジュンが演じる広開土大王は、韓国の歴史上、最も韓国の領土と勢力を拡大させた王様で、「太王」と呼ばれました。広開土大王は身分の差に関係なく優秀な人材を将軍に起用し、在位期間中64の省と1400の村を手に入れ、高句麗の領土を韓国歴史上、最大規模となる今の中国吉林省にまで拡大して最盛期を迎えました。鉄の鎧を着た騎馬兵と海軍、王の親衛隊などを別途訓練させ、水陸で立体的に敵を攻撃する知略家でもあり、民をとても大切にする威厳ある王でもありました。広開土大王が領土を広げようと必死になった理由は、民の生活を脅かす異民族の侵略を断ち切り、安定した食料供給で民が住みやすい国にするためでした。


広開土大王は領土を広げただけではありません。外交にも優れ、高句麗の周辺にあった北方少数民族とも友好関係を維持しました。南へは領土を広げず、兄弟国の百済、新羅を守りました。広開土大王碑には、「悪さをする者をやっつけ、生業に励めるよう平和な国にし、国は豊かで民は裕福で太王の恩恵が天まで届いた」と記録されています。広開土大王のおかげで、高句麗は一部族の国ではなく、大帝国として成長して行きました。


広開土大王は芸術と仏教にも興味があり、平譲(ピョンヤン)にお寺を9つも建てました。王族の墓や壁画を守る官職も新しく作り、高句麗は神の子孫であるという思想も発展させました。


広開土大王は激変する国際情勢の中で、軍事、外交、貿易を活発にさせ国を豊かにした政治家として国民に尊敬され、39歳の若さで亡くなった時、高句麗人達は「天はなぜ我々を哀れにするのか」と嘆いたそうです。


歴史を振り返ると韓国はいつも侵略される側でした。高麗時代はモンゴルに何度も侵略され国土は焼かれ文化遺産もほとんど残らない被害を受けましたし、朝鮮時代には中国、ロシア、日本から次々に侵略され、1910年から1945年まで36年間、日帝強占期を送ります。韓国人にとって広開土大王は、歴代王の中で唯一受け身ではなく自ら勇敢に戦に挑み、自分の国を東アジア最強の国にした英雄として心の奥深いところで息づいています。





謎めいた女性関係も広開土大王の魅力!?



2007年1月22日から韓国の貨幣が新しくなりましたが、2005年にポータルサイト「NAVER」が実施したアンケート調査では、新しい紙幣に採用されるべき人物として、53.95%の人が広開土大王と答えたということがありました。今回はデザインとサイズだけの改定となり、残念ながら広開土大王は登場しませんでしたが、10万ウォン札が新しく作られれば、間違いなくそこには広開土大王が登場するだろうと言われているほどです。また、総合誌『月刊中央』2007年4月号は、韓国の歴史を動かした100人の人物の1位に広開土大王を選定したほど、誰もが尊敬する韓国の英雄であります。


面白いのは他の高句麗の王様に関しては、「●●姫と結婚した」というような記録が残っているのに、広開土大王は誰と結婚したという記録はなく、息子の長寿王(ジャンス)が先代が築いた太平盛大を受け継ぎ平和な国が続いた、としか残っていないことです。ドラマ『太王四神記』には、広開土大王が16歳の時に出会ったスジニという女性を愛しながらも別の女性と結婚せざるを得なかったラブストーリも秘められているようで、とても楽しみです。知れば知るほど魅力的な広開土大王と彼を支える青龍、白虎、朱雀、玄武。彼ら四神が、紀元前2333年、天から降りてきて韓民族を作ったといわれる檀君(タングン)の木がある大陸の中央を目指す道程を描いたファンタジーに、早くハマってみたいですね!


   – BY  趙章恩

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http://ni-korea.jp/entertainment/essay/index.php?id=08

第07回:高句麗が発祥の韓国代表料理「シルトク」


予習してさらにハマる太王四神記

【第七回】

高句麗が発祥の韓国代表料理「シルトク」






高句麗で発展した蒸し器「シル」



ヨン様ファンにはなじみ深い、ロッテ百貨店 本店14階にある韓国伝統デザートカフェ「Tea Loft」。ガラスのドーム天井で、夕暮れや雨の日にはとってもステキなここの名物メニューは「一人前シルトク」です。注文してから蒸し始めるから、熱々ほかほか。粒々の小豆がたっぷりのったパッシルトク(「パッ」は小豆、「トック」は餅という意味)と、かぼちゃが入ったホバッシルトク(「ホバッ」はかぼちゃという意味)。ままごとのようなかわいい土器に入った伝統餅だけれど、初めて見たときはこの素晴らしいアイデアに感嘆せずにはいられませんでした。このまま10倍ほどの大きさにすると、韓国のお餅の基本、お祝い事がある日に台所でお母さんが大きな「シル」を取り出してはお米の粉に小豆や栗、かぼちゃなどを入れて蒸して作ってくれた「シルトク」になります。


このシルトクのシルは青銅器時代から韓国で使われていた調理道具のことで、簡単に言うと下に小さな穴がいくつか開いて取っ手が二つついた、土で作った蒸し器です。直接火にかけず、下に鍋をおいてお湯を沸かすと、シルの下の穴から湯気が入り中のものを蒸してくれるもので、昔はこの中にお米や穀物の粉を入れて蒸し、ご飯の代わりに食べたといいます。穴から穀物の粉がこぼれないよう、穴の上に大根、かぼちゃなどの野菜を薄くスライスしたものや山菜を敷きました。このシルが日常的に使われ始めたのが三国時代初期。その中でも、高句麗でその使い方が発展したと言われています。





  • デザートカフェ「Tea Loft」のパッシルトク。












熱々の食べ物が生み出した匙と箸の文化



高句麗時代の主食は米、豆、麦、粟などの穀物で、後期になるにつれて高級穀物である米の消費が増えました。高句麗初期には、お米よりは粟が主食でした。粟はお米に比べ粘り気がないため調理が難しく、食べやすいよう他の穀物と一緒に粉にして土器に水を入れて過熱し、お粥のようにして食べました。後期なるにつれ湯気で蒸して餅のようにして食べるようになり、鉄の鍋で穀物を炊いて食べる方式に変わりました。蒸して食べるという方式はそれ以前からもありましたが、高句麗時代からシルと鉄鍋の両方を利用してご飯や餅、お粥など好きなものを作って食べるようになったということです。3世紀から6世紀にかけて、高句麗は民の豊かな生活を得るため、お米の産地で有名な漢江(ハンガン)から南の忠清道(チュンチョンド)までをも高句麗の領土にします。そのため、他の国に比べ早い時期からお米を主食にしていたようです。


高句麗の古墳には鍋の上にシルが置いてある台所の壁画があり、発掘された高句麗の遺物の中にもシルがあります。韓国は昔からシルを使って作る熱々の食べ物が多かったので、東南アジアのように手で食べるよりスッカラッとジョッカラッ(スプーンと箸)を使って食べる文化が発達しました。


今ではシルトクも家で作らず街のお餅ショップで注文するか、100g単位で測り売りしているものを買って来ますが、お祝いには欠かせません。シルトクも色んな種類があって、どんなお祝いなのかによって違うシルトクを作ります。





  • 高句麗時代の壁画に描かれた「シル」。












お祝い事に欠かせない「シルトク」



特に結婚式前の結納の日には、このシルトクは重要な意味を持ちます。韓国では結納を「ハムが入る日」と呼びます。これは大きな桐の箱、または旅行用トランクに、新郎側からの贈り物と新郎の父から新婦の父へ婚礼を願う内容を書いた婚書紙やお祝いの手紙を入れて新郎と友達が新婦の家に騒がしくやってくる日で、この贈り物を入れる箱を「ハム」と呼ぶのです。それが家に到着すると、まずシルに入ったままのシルトクの上に赤いボジャギ(風呂敷)を敷いて、その上にハムを載せて礼をし、それからハムを開けて家族みんなで祝います。新婦はシルトクの上にある栗やなつめを食べ、それからシルトクを切って近所にも配ります。栗となつめは、「子宝に恵まれますように」という願いを込めて食べるのです。


引越した日や新しくお店をオープンする日は、小豆シルトクを近所に配ります。赤い小豆が魔よけになるため、悪い気運を消してくれると言い伝えられているからです。韓国では、餅はみんなで一緒に食べるものなので、挨拶にぴったりのお土産でもあります。また、子供が生まれて100日目を迎えると、お米だけで作った白くてほんのり甘いシルトクであるペクソルギを配ります。ペクは「白い」という意味と、同時に「百」という意味もあるので、子供が元気に百寿するようにという家族の願いが込められたお祝いの食べ物です。


最近は忙しい朝、パンの代わりにトックを食べた方が腹持ちも長くカロリー少な目で健康にもよいというWELL-BEINGブームから、淡白なシルトクの人気に再び火がつきました。大量に買って冷凍庫に入れておけば、朝にレンジでチンするだけなので便利ですよね。最近は「Tea Loft」の成功に刺激されてか、トックカフェといって、餅を中心に伝統飲料やデザートを出すカフェが仁寺洞(インサドン)清譚洞(チョンダムドン)を中心に増えています。


また、餅で作るトックケーキも人気が高く、子供のお誕生日にシルトクの具を果物にしたり、生クリームで飾ったトックケーキでパーティーを開くお母さん達も増えています。高句麗から始まったお祝いの日にシルトクを作って食べる習慣は、今でもしっかり韓国人の日常生活に根付いています。韓国にいらしたときにはぜひシルトクの味を確かめてみてください。


韓国のドラマは食事の場面が多いことでもよく知られてますが、『太王四神記』ではどういう料理や食事シーンが登場するんでしょうか。ドラマのストーリー以外でもチェックしておきたいところがいっぱいですね。

   – BY  趙章恩

Original column
http://ni-korea.jp/entertainment/essay/index.php?id=07

第06回:高句麗の伝統遊びと風習


予習してさらにハマる太王四神記

【第六回】

高句麗の伝統遊びと風習




古墳壁画に描かれた高句麗文化の数々



国が途絶えて14世紀ほど経った今でも、高句麗の歴史は韓国文化に大きな影響を及ぼしています。高句麗文化の特徴は古墳壁画によく現われています。騎馬行列、狩猟、シルム(韓国の相撲)、踊る人、料理する人、宴会を楽しんでいる人々など、壁画には覇気溢れる高句麗文化が上手く表現されています。高句麗人は囲碁、将棋、ユッノリと投壺(弓を投げて壺の中に入れるゲーム)などの遊びを楽しみました。ユッノリは、今でもお正月に家族が集まるとよくやっている「すごろく」のようなゲームです。


またシルムと手搏(スバッ)という競技も楽しみました。手搏は素手で自分を防衛するための武術で、高麗時代、朝鮮時代を経て韓国の国技でありオリンピックの正式種目でもある跆拳道(テコンドー)に発展しました。古墳の壁画には、高句麗人の男性がシルムをしたり応援する絵が描かれていますが、今のシルムとその形式がほとんど同じなのは驚きです。韓国のシルムも土俵からはみ出た人の負けですが、衣装や技は日本とはまた違います。壁画にはこの他にも、西域から伝わったサーカスや音楽演奏会を観覧する人々の姿もあります。高句麗時代には楽器や音楽が盛んに作られただけに、自ら琴や笛を演奏するのを楽しんだ人も多かったそうです。





  • 狩猟をする高句麗人を描いた壁画。高句麗人の覇気あふれる日常が伝わってきます。



結婚式より葬儀を大切にした高句麗人



高句麗の風習の中でも、結婚と葬儀は今の韓国と全く違います。結婚が決まれば、まず花嫁の家に新郎が寝泊りする小さな家を建て、夫婦になってから子供が成長するまで花嫁の家で暮らしました。この風習は、高句麗後期になるにつれて徐々になくなります。その代わりに、男女が出会い恋愛結婚するほど自由な結婚風習が生まれました。


高句麗人は、結婚式より葬儀をとても大事にしました。たくさんの費用をかけて盛大なお葬式を開き、亡くなった人が生前に使っていた品物をいっぱいお墓の中に入れてあげました。ですが、この埋葬品を狙った盗掘が増えてくると、高句麗後期には亡くなった人が使っていた品物をお墓の横に置いて、お葬式に参加した人々に気に入ったものをプレゼントする風習に変わりました。何よりも違うのは、高句麗人は人が死んだ瞬間には涙を流して大変悲しみますが、葬儀の間にはむしろ音楽を演奏しては歌って踊り、楽しい街のイベントとして祝ったことです。


「太王四神記を見る前に知っておきたい高句麗人の精神」でもご紹介しましたが、高句麗人は来世ではよりよい世界で生まれ変わると信じていたため、死を恐れませんでした。だから高句麗人にとってお葬式とは、生まれ変わるのを祝うパーティーでもあったのです。



オンドルが普及したのは高句麗時代から



高句麗人の一般家庭の生活はどうだったのでしょう。高句麗は今の北朝鮮と中国の東部地域にあったので冬の寒さは非常に厳しく、冬を暖かく過ごせるかどうかは命に関わる問題でもありました。高句麗人は家を建てる時に下に平たい石を敷いて、その石を熱して室内を暖かくする床暖房、オンドルを使いました。オンドルの原型は紀元前5000年ごろの新石器時代に遡りますが、王室から一般住宅はもちろん、お寺、野外にある軍営にいたるまで幅広くオンドルを取り入れたのは高句麗からでした。


オンドルは今でも韓国人の生活にはなくてはならない存在で、マンションでも一戸建てでも食堂でも、ボイラー式のオンドルで暖房をし、床から天井までほかほか暖かい冬を過ごせます。田舎の旧家に行くと、まだ薪を焚いて石を熱する昔からのオンドルが残っています。


びっくりなのは、こんなに素晴らしい暖房施設があったにも関わらず、高句麗人は寝室だけ靴を脱いで入るオンドルにし、他の部屋は靴を履いたまま出入りしやすいようテーブルに椅子という生活をしていたことです。騎馬と農耕民族の間でとても活動的だった高句麗人にとって、寒さをしのげる住居よりも、より動きやすい住居の方が大事だったのかも。暖かいオンドル部屋で本を読んだり、ご飯を食べたりする座敷生活は朝鮮時代から始まりました。


ドラマ『太王四神記』の主人公・ダムドク(ペ・ヨンジュン)が住むのはどんなお城なのか、どんな部屋なのか気になりませんか? そして、高句麗人の武術を披露してくれるダムドクの凛々しい姿を想像するだけでドキドキしてしまいますね


   – BY  趙章恩

Original column

http://ni-korea.jp/entertainment/essay/index.php?id=06


[Face] ジャパンインターネットビジネスコミュニティ ●会長 趙 章恩 (2001年10月22日 掲載)

BCN This Week 20011022 vol.913 掲載
 


 




章恩 Cho Chang Eun


ジャパンインタネットビジネスコミュニティ●会長  章恩


http://www.kjibc.org/



 ●チョウ
チャンウン。●1974、ソウルまれ。●3から高校卒業するまで東京滞在。●98梨花大学英文科卒業同年、サムスン物産入社。●00、クラブワウ入社同年、ホンイク(弘益入社●012、『日本インタネットの収益モデルをがせ!』(ドナン出版)、017、『インタネットの!』(アスキ)をそれぞれ出版


 



 


ネットビジネスのIT事情のプロをめざす


 「日本のインタネットはとてもれていて、使っているもあまりいない」


 


 そんな国人先入一石じたのが、今年出版した『日本インタネットの収益モデルをがせ!』だ。題名内容刺激的なこのいたのは、当時無名のウェブ制作会社いていた、さんだ。今年には、日本語で『インタネットのめ!』を出版した。ブロドバンド回線普及が1000万世するともわれるいをいた。学卒業後一度大手企業就職するが、勃興してきたネットビジネスのせられるように退職した。


 


 「大企業のなかで、帰国子女ということがコネ入社みたいにわれ、づらかったのも。そこで窮屈いをするより、しい領域んだほうが意義がある」『め!』を執筆中は、ソテックのウェブを制作するため、めていた会社仲間たちと横浜んでいた。「りを見渡しても、日本とITにしい国人ないことを実感した」くてである。「将来韓国IT事情第一人者になりたい。『まずさんにいてみよう』とわれるようになりたい。そのためにはもっともっとしなきゃ」来年から修士課程する。


 


安藤章司取材・文Report&Text by Shoji Ando


清水丈司写真photo by Takeshi Shimizu


 
BCN This Week 20011022 vol.913 掲載]  Link

[Announcement] 新潟県IT&ITS推進協議会 ブロードバンド普及セミナーを開催

新潟県ITITS推進協議 ブロドバンド普及セミナ開催


本紙コラム執筆者 章恩さんが講演


 


 新潟県ITITS推進協議はこのほど、「IT先進・韓国ぶ~BB(ブロドバンド)事情うらおもて~」とするITフォラムを開催4まで本紙コラム「ソウルの街角から」をした趙章恩JIBC(ジャパンインタネットビジネスコミュニティ)会長(=写真)が基調講演最新IT事情などを紹介した。新潟県200311月末現在で、ADSLおよびCATV(ケブルテレビ)によるブロドバンド帯普及率19%にとどまっている。学官構成する同推進協議主宰する新潟県は、今年1に「新潟県ブロドバンドネットワ構想」をまとめ、05のブロドバンド普及率50%にめることを目指している。


 


 今回、そうした推進活動一環としてJIBC会長いて最新ブロドバンド状況について講演とパネルディスカッションをいた。基調講演JIBC会長は、「オンラインゲムで普及したブロドバンドネットワクは、えるまでになった」とし、4国総選挙では「個人のホムペジを候補者80%が当選した」など、インタネットが国政左右するまでになっているとった。また、のテレビがドラマの有料ネット配信収益げている実情や、新聞社有料紙面PDFファイル配信無料のニュ配信わせている事例えながら、では「自己顕示欲いので、ブログやHOMPY急速普及している」ことや、インタネットマンションの建設増加していることを紹介


 


 「では、ブロドバンドを使って『まず、やってみよう』というのが普通」と日常にブロドバンドが浸透しており、「ちゃんがまれるとわるかわらないうちにマウスをらせる。インタネットなしではらせない」などとユモアをえながら状況紹介した。パネルディスカッションでは、張鉉洙・新潟県国際交流員が、「新潟県てみて、ADSLんだが開通まで2週間かかっていた。ならば1利用できるようになる」と指摘した。


 


 また、李欣洙セコム上信越先任研究員はインタネットセキュリティのから、「インタネットの普及でネット犯罪増加している。プロバイダはユるだけでなく、ユ教育められている」と、普及とともに教育重視必要性えた。また、飯塚留美・国際通信経済研究所上級研究員は、でブロドバンドのコンテンツ配信普及している状況について、「テレビ発言力く、著作する意識う」などと文化いについて言及した。


 
BCN This Week 200467 vol.1042 掲載]  Link

「皇帝」イム・ヨファン入隊で浮上した「プロ」ゲーマー徴兵問題

韓国オンラインゲーム業界の生き証人、プロゲーマー「イム・ヨファン」選手が遂に空軍へ入隊した。イム・ヨファン選手は韓国では知らない人のいない超有名人、数々の広告に出演し、年俸は契約金だけで3年間8億ウォン(約1億円)、百科事典にまでその名前が掲載されている。

 1980年生まれでまだ26歳なのにすでにプロゲーマー暦7年、現在移動通信キャリア最大手であるSKテレコムのプロチーム「T1」に所属している。一時期スランプはあったものの、長い時間トップも守り続けた。身長180Cm、体重70Kgとほっそりした美少年が、表情一つ変えず一心不乱にマウスを動かし敵をとことん攻める勝負根性の強いゲームスタイルから男性ファンはもちろんのこと、サッカー選手や芸能人以上に女性ファンを抱える大物スターだ。ファンサイト会員数はそこらへんのアイドルより多い70万人、プロゲーマー初の2億ウォン年俸(約2500万円)、史上初StarCraft(対戦型戦争ゲーム)リーグ戦決勝進出10回といった華々しい記録の持ち主でもある。


徴兵免除を求め署名運動も


 入隊前の最後の試合となった第1回スーパーファイターズ大会には1万人の観客が殺到し、ネットとCATVのオンラインゲーム中継専用チャンネル3社から中継され、800万人以上が観戦している。オンラインゲーム中継は地上波の民放でも金曜日の夜よく放映される人気番組で、アナウンサー、解説者がまるでサッカーやプロレス、K1の中継のように、選手のマウスの動き一つ一つを中継し、各選手の特徴や戦略を解説する。解説者が解説の途中に立ち上がったり、怒り狂ったり、選手より自分が燃え尽きて最後には声が出なくなるという珍事も日常茶飯事だ。


 韓国国籍を持つ男性なら避けて通れないのが徴兵制。有名人だからといって例外はない。だが、イム・ヨファン選手の入隊はファンはもちろん、オンラインゲーム業界を巻き込んでの議論となった。


 サッカー選手はワールドカップベスト4、野球選手は金メダル、囲碁棋士は世界大会で優勝すれば徴兵が免除になるのに、韓国オンラインゲーム産業を支えるプロゲーマーたちは世界大会で何度も優勝しているのに、どうして徴兵を免除してもらえないのか、とファンを中心に署名運動が始まり、プロゲーマーを管理している韓国Eスポーツ協会も動き出した。一部では「戦争ゲームに強いんだから軍のスペシャリストとして活用すべきだ」、どいった「?」な意見まで登場し、オンラインゲームに詳しくない年配者までも「プロゲーマーとはそんなにすごい人たちだったのか」と関心を持つようになった。


 そこで妥協案として国防部が出した意見が、プロゲーマーを一般兵士ではなく「空軍電算特別技術兵士」として選抜するという案だった。「空軍電算特別技術兵士」になれば基礎軍事訓練後、空軍本部中央電算所に配置され、軍事用シミュレーションゲーム開発テスターとして活躍することになる。さらには、兵士たちのEスポーツ関連同好会に参加し、兵士達を楽しませやる気を沸き起こすとても重要な(!)役割を果たすことも期待されるというわけだ。


 プロゲーマーもスポーツ選手以上の人気と地位を獲得しているため免除対象にするべきという意見と、プロゲーマーまで軍免除の対象になるなら「サラリーマンだってインターネット検索は上手いぞ!プロゲーマーぐらいの電算技術は持っているはずだ!」と主張する意見が対立し、大騒ぎとなった。


 が、結局、イム・ヨファン選手は免除にならず空軍電算特別技術兵士として10月9日入隊した。


Starcraftがなぜ国民的人気を集めたか


 ここで韓国の徴兵制について簡単に説明すると、韓国男子は18歳~30歳の間に身体検査を経て、現役といわれる陸軍兵隊または区役所の雑務や地下鉄駅構内で酔っ払いを運び出し、満員電車の中に乗客をぎゅうぎゅう押し込む役割をする公益要員のどちらかで2年3カ月間軍人として生活することになる。産業特例要員といって工学関係の資格証を持つ人を対象にベンチャーや研究施設で3年間働かせる特別処置もある。もちろん健康でない人は軍を免除される。


 でも青春の2年3カ月を軍で過ごした恨みは想像以上で、学閥以上にどの部隊出身なのかは男性同士の重要な話題になっている。もちろん、履歴書にもちゃんと書かなくてはならないし、軍を除隊したか免除された人だけが採用対象になる。軍を免除された人は「神の息子」と憎まれ、仲間はずれにされるのがおち。自分が軍でどれだけ活躍したかホラを吹く男性は後を絶たず、軍の話になると自動的に「はいはい、あんたも海軍の特攻隊でタンクを自ら運転して北朝鮮を攻めたんでしょう」とうんざりする女性も多い。


 この国民のほぼ半数が持つ軍隊経験は他の国ではあり得ない事例を生み出した。StarCraftというアメリカBlizzard社の戦争ゲームの爆発的人気とStarCraft対戦のためにブロードバンドに加入し、ADSL大国になったことだ。


 StarCraftはそれぞれ武器や能力に特徴がある3つの種族「テラン」、「ジョグ」、「プロトス」から種族を選び対戦することになる。対戦相手はPCではなく、ユーザー同士となるため、勝負の進み方に決まったパターンがない。また戦争のためのマップを素早く把握し、敵がどこにいてどのような戦術で攻めてくるかを先回りしてキャッチした方が勝ちだ。グループでの戦いなので参加者同士のチームワークが当然、重要。


 つまり、同じチームを組んだメンバーにてきぱき指示を出し、ゲームを勝利に導ける、軍隊経験を自慢できるとっておきのゲームというわけ。 StarCraftの人気のお陰で子供の遊びとして扱われたオンラインゲームは韓国を代表する産業に成長し、まったく新しい職業である「プロゲーマー」を登場させた。


 ちなみにイム・ヨファン選手のニックネーム「皇帝」もStarCraftに由来する。彼がプロゲーマーの中では初めて、StarCaftの種族の中でもくせものである「テラン」を自由に操り勝利したことがきっかけだ。これを機に「テランの皇帝」と呼ばれるようになり、何度も優勝していることからそのまま「皇帝」がニックネームとなった。そんな彼は、ゲームの世界から軍隊の世界へとこれから2年3か月を費やすことになる。



(趙 章恩=ITジャーナリスト)

日経パソコン
2006年11月7日

-Original column
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/NPC/20061107/252718/

第05回:三国時代のトレンドをリードした高句麗人


予習してさらにハマる太王四神記

【第五回】

三国時代のトレンドをリードした高句麗人




高句麗人はおしゃれ好き



高句麗人は、中国や百済、新羅でも有名なおしゃれ好き民族だったそうです。まずは衣装からチェックしてみましょう。歩くのが走るように速かったという高句麗人は、馬に乗って大陸を走り回った民族でもあります。服も馬に乗りやすいよう活動性が重視され、動くのが楽なバジ(パンツ)とチョゴリ(上着)が男性の基本衣装でした。男性でもチマ(スカート)を着た中国人とは違い、高句麗は北方遊牧民のようなパンツ(ズボン)を好みました。女性たちはギャザースカートとセクドン(韓服のデザインによく使われる色とりどりの布をストライプ柄にパッチワークしたもの)スカート、ドット柄スカートなど多様な模様のものを好みましたが、時には楽なパンツもはきました。また上着は派手な文様が飾られたドゥルマギ(韓服のコート)を着ました。


高句麗ではシルクの錦繍が生産され、毛皮、皮、麻、綿など衣服材料も豊富に利用して、美しくて楽に着られる服が作られていました。染色技術が発達していたため、王室や貴族はもちろん、奴婢までも色と柄が派手な衣装を着たという記録があるほどです。皮で作り金の飾りをしたベルトや、色んな種類の帽子も身につけていました。王様はとても大きくて華麗な金の王冠をかぶったといいますから、かなりの派手好き民族だったようです。高句麗建国神話をドラマ化した『朱蒙(チュモン)』でも、出演者らが「衣装や王冠が派手できれいなのはいいけど、重すぎて頭がくらくらする」と愚痴をこぼしたそうです。体力がないとおしゃれもままならないのかもしれません。



ヘアースタイルにもこだわった高句麗人



男性のヘアースタイルは、きれいに整えたサントゥ(髪を束ねて頭の上に棒のように載せたちょんまげのようなヘアースタイル)でした。その上に身分や職業を象徴する帽子をかぶり、鳥の羽を飾るのが当時のトレンドだったそうです。『太王四神記』のペ・ヨンジュンは長い髪を後ろに留め、風にふわふわなびかせるスタイルですが、映画『スキャンダル』で見せてくれたあのサントゥのほうが、より歴史的事実に近いんですね。でも後期になるにつれ、男性でも長い髪をなびかせながら狩りをする絵が残っているので、ヨン様を通して高句麗人の色んなおしゃれを見せてほしいものです。


女性は鬢下垂(ビンハス)といって、髪を後ろに留めては耳の横だけ一筋長く横髪を垂らすヘアースタイルが好きで、壁画にも残っています。このヘアースタイルは顔が細く見えると、百済や新羅の女性達も真似をしたそうです。また貴婦人達は自分の地位をアピールするため、部分かつらで優雅なアップスタイルを好み、金の飾りも多くつけました。また、頭の上と横に髪で3つのおだんごを作り、後ろはストレートに垂らしたり、二束に分けて三つ編みにした髪を楕円形に結ぶといった凝ったスタイルなど、あれこれアレンジするのが大好きだったようです。壁画には侍女もヘアーバンドのようなものをしていたり、毛先が外側にはねたポニーテールだったり、それぞれ身分に合わせて精一杯工夫し、おしゃれの手を抜きませんでした。「この頃の高句麗ではこういうスタイルが流行っている」など、高句麗の流行トレンドを調査した中国の記録も残っているそうで、高句麗人はおしゃれのお手本だったんですね。





  • ヘアースタイルを鬢下垂(ビンハス)にした高句麗時代の女性。



三国時代からおしゃれ上手だった韓国女性



また、お化粧が本格的になってきたのも高句麗時代からでした。それ以前は豚の油を塗り肌を守る程度だったのが、女性達は花びらを蒸して粉にしたものを油で溶いて塗る紅を使い、顔は白く眉毛も墨でくっきり描きました。おしろいは花の種、米、真珠を粉にしたものが使われていました。壁画で見ると、眉毛を細く長く描く人もいれば、短く太く描いている人もいたりと色々ですが、口紅は大体自分の唇より小さく塗るのが流行っていたようです。目の周りだけアイシャドーを塗ったように明るくするメイクもしていました。高句麗は寒い北の国なので、口紅を塗らないと唇が荒れてしまうという気候の問題も、お化粧が早いうちから普及した理由だそうです。頬も血色のいい顔にするため頬紅を塗りましたが、顔の印象をよくし、手相ならぬ「観相」をよくするためではないかという説もあります。


高句麗の僧侶「曇徴」(ダムジン、紙と墨を作る方法を日本へ伝播し、法隆寺の金堂壁画を描いたことでも有名な方です)が610年(推古天皇18年)に日本へ渡るとき、紅が入った器を持参してプレゼントしたのをきっかけに日本でも紅を塗り始めたという記録があります。新羅では色白がカッコいいと貴族男性も女性の真似をしておしろいを塗ったほど、高句麗を含め百済、新羅の三国時代から韓国の女性は身だしなみをとても大事にしていたことがわかります。


香も高句麗王族のおしゃれには欠かせないものでした。『太王四神記』でヨン様が愛する女性スジニに贈る香を商品化した香水が発売され、話題になってます。高句麗王族は、香りがする植物のエキスや香木を入れたお風呂に入ったり、服に染み込ませていつもいい香りが漂うように気を使っていました。


韓国の夏の風物詩「ボンスンアムルドゥリギ」は、お化粧というよりは赤い色を身につけるとお化けが寄り付かないという呪術的な意味で、高句麗時代から流行っていたといいます。ボンスンアムルドゥリギは、鳳仙花の花びらと荒い塩をついて混ぜ合わせたものを爪の上に載せ、鳳仙花の葉っぱで巻いて糸でとめて数時間置き、爪をピンクのような赤に変えるもの。鳳仙花は韓国どこでもよく咲いているので、最近でも夏になると爪を赤く染める女性や子供をよく見かけます。初雪が降る日まで爪に鳳仙花が残っていると、運命の人に出会えるというおまじない付きのイベントでもあります。おばあちゃん達の間では、水虫に効果がある(!)と足の爪を染める人も多いようです。日本にも鳳仙花は多いので、今年の夏はボンスンアムルドゥリギに挑戦してみませんか? 赤く色が濃い花びらを集めるのがポイントです。


ドラマ『太王四神記』に登場する女性たちも、壁画に残っていたあの髪形で登場するかもしれません。ダムドク(ペ・ヨンジュン)を間に、微妙な関係になるスジニとキハが繰り広げるおしゃれバトルも楽しみですね。

   – BY  趙章恩

Original column
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