ITUテレコムワールド2006、ITでも韓流を狙う

「情報通信技術分野のオリンピック」とも呼ばれる「ITU(国際電機通信連合)テレコムワールド2006」が12月4日から8日まで、香港アジアワールドエキスポで開催されている。アジア初のテレコムワールドだけあって、韓国のIT関連新製品が一堂に会するほか、大手企業のCEOやIT業界の大物もみんな香港に集結する盛り上がりをみせている。

 韓国国内の報道では、ITUに初参加加するチャイナモバイル、チャイナネットコムなど中国勢に注目すべしと騒いでいるし、中国通信業界の世界進出のきっかけになるだろうという指摘もなされている。一般ユーザーからすると「テレコムワールドってそんなすごい展示会なの?」としか思えないが、「へ~」と驚くべき便利な最新モバイル技術がどっと披露されるという点は注目すべきではないだろうか。


中国の韓流は衰え知らず、その波及効果はIT機器にも


 最近、日本の韓流(韓国ブーム)は一時に比べると下火になったようだが、中華圏での韓流はまだまだ勢いが衰えていない。ドラマに登場するサムスンのPCや携帯電話、LGのTVや家電までもすごい勢いで販売が伸びているという。


 11月にあった俳優ソン・スンホンの除隊では日本や中国、台湾、シンガポールなどから5000人以上のファンが詰め掛けたそうだし、済州道であった韓流エキスポ開幕式ではヨン様が30分登場するだけで日本からの参加者が軽く3500人を超したそうだ。驚いたのは遠い砂漠の国、中近東でも韓国のドラマが人気で、韓国製の黄金TVやプラチナ携帯といった韓国や日本では見たこともないようなすごい製品が売れているそうだ。


 韓流ファンたちは韓国人にとってありがたい存在だ。自国の文化を尊重してくれて、ドラマや映画を観ながら一緒に感動してくれる仲間だからだ。この勢いに乗って、ITでも韓流が続いてくれればという思いもあるが、一方でサムスンとLGの独走ゆえに、韓国にはこの二つの会社しかないのかと思われるのは悲しい気もする。


 冒頭に紹介したITUテレコムワールド2006に参加するのは世界40カ国、700以上の企業だ。韓国からは日本のNTTのような電話・通信企業であるKT、携帯電話会社のSKテレコムとKTF、加入者100万人を目前した衛星DMB(日本の衛星をシェアしている衛星モバイル放送)のTUメディア、端末関連ではサムスン電子とLG電子といった韓国を代表する大手IT企業が参加する。


 韓国勢の展示の目玉は、今年から商用化された3.5GのHSDPA、Wibro(モバイルWimax)といった新しい通信サービスと端末。IT強国と自負しているだけあって、世界に向けあっと驚くような最新技術を紹介するべきという義務感を感じているようだ。KTとKTFは「ユビキタスライフパートナー」というテーマで公園(U-Park)、商店街(U-Mall)、駅(U-Station)、地下鉄(U-Metro)、家(U-Home)など、生活の中の具体的なシーンを挙げた展示コーナーを設けた。


 SKテレコムは「Innovation & Inspiration」がテーマで、日本でも提供されている携帯電話での決済、いわゆるおサイフケータイ機能のほかに韓国が発信地となったマルチメディアサービスを展示する。1回の決済で再課金なく、PC、MP3プレーヤー、携帯電話など、いろいろな端末から音楽を再生できる「Melon」、携帯電話が人の動きに反応してゲームの操作が簡単にできる「GXG」、世界4カ国でサービスされているメガヒットSNS「モバイルサイワールド」などを展示する。


 日本ではなかなか定着しないモバイル衛星放送も韓国ではポピュラーな存在だ。韓国では有料サービスにもかかわらず高速鉄道や地下鉄の中を含め全国95%に至るカバレッジの広さとチャンネルの多さから人気を集めていて、映像15、オーディオ19チャンネルを提供している。利用できる端末も54種類と選択の幅が広く、加入者数100万人まであともう少し。ITUでもそのノウハウに注目が集まっている。

(趙 章恩=ITジャーナリスト)

日経パソコン
2006年12月5日

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第12回:高句麗昔話「ホドン王子とナクラン姫」


予習してさらにハマる太王四神記

【第十二回】

高句麗昔話「ホドン王子とナクラン姫」






韓国人なら誰もが知っている物語 ~その2~



「好董(ホドン)王子と楽浪(ナクラン)姫」のお話も、前回ご紹介した「バボオンダルとピョンガン姫」同様、日本の「桃太郎」や「かぐや姫」のように、韓国では誰もが知っている物語。高句麗時代に実在した人物の悲しいラブストーリーです。愛する人のため国を裏切った姫と、国のために愛する人を利用した王子の話は『三国史記』に記録され、語り継がれてきました。ホドン王子は、ドラマの主人公として有名になった高句麗の建国王「朱蒙(チュモン)」の曾孫にあたります。それではご紹介しましょう。





ホドン王子とナクラン姫



高句麗の3代目大武神王(デムシンワン、在位18~44年)は、最初の王妃に跡継ぎになる男の子が生まれなかったため、二番目の王妃を迎えました。二番目の王妃は男の子を産み、その名前を好董(ホドン)とつけました。ホドン王子はとてもハンサムで聡明だったので、王はこの上なく大事に王子を育てました。


ある日、青年になったホドン王子は、高句麗の東にある沃沮(オクジョ)というところへ狩に出かけます。そこで高句麗の周辺国である楽浪(ナクラン)の王・崔理(チェリ)に出会います。崔理はホドン王子を見るなり、娘と婚姻させて高句麗の侵略から国を守ろうと考え、王子を楽浪へ招待します。美しいナクラン姫と出会った王子は一目惚れし、父である大武神王には何の話もせず、こっそり婚姻を約束します。二人の蜜月は過ぎ、ホドン王子はあと何日かで高句麗に戻らなくてはならなくなりました。ホドン王子はナクラン姫に約束します。「父上に婚姻を許してもらい、迎えに来るから待っていてください」……。


しかし、高句麗に戻ったホドン王子は、婚姻の話を父に切り出せませんでした。なぜなら、大武神王が「楽浪を侵略し、高句麗の領土にしよう」と王子に話したからです。そして大武神王は、自鳴鼓(ジャミョンゴ)さえ鳴らなければ、戦に勝つのは時間の問題だと語りました。楽浪には、自ら鳴って敵の侵入を知らせてくれる不思議な「自鳴鼓」という太鼓があり、高句麗の侵略から国を守ってくれていたのです。


それを聞いたホドン王子は、姫に手紙を書きます。「愛する姫よ。あなたが自鳴鼓を破ってくれれば、父上も姫との婚姻を許すでしょう」。


手紙をもらった姫は悩みます。家族と国を裏切り、愛を選ぶべきなのか……。姫は「自鳴鼓を破るのは父と楽浪を裏切ることだが、私とホドン王子が婚姻すれば、楽浪も高句麗もひとつの国になる。夫になる王子の言うことに従うべきなのでは?」。そして姫は自鳴鼓を破り、このことをホドン王子に知らせます。


大武神王15年(32年)、ホドン王子は軍を導いて楽浪を攻撃します。自鳴鼓は鳴りませんでした。高句麗軍が攻めてくると、楽浪の王は慌てました。自鳴鼓が鳴らなかったのに敵が攻めてきたからです。自鳴鼓が破かれているのを見た王は、犯人が姫であると直感します。王は涙を流しながら国を裏切った姫を殺します。楽浪は高句麗に負け、領土を占領されてしまいました。戦には勝ちましたが、ナクラン姫が死んだという知らせに、ホドン王子は自分のせいだと後悔し、悲嘆に暮れました。


一方、大武神王の一番目の王妃が、ついに男の子を産みました。王妃は自分の子息を跡継ぎにするため、ホドン王子を追い出そうとします。王妃は大武神王に「私がいくら年齢の割に若くて美しいといっても、ホドン王子が義理の母である私に、特別な感情を抱くのはおかしいではありませんか」と嘘をつきました。


大武神王は「そんなはずはない、王子を自分の子供だと思って愛してくれ」と王妃に頼みました。しかし、王妃はさらに嘘をつきました。ホドン王子が自分の手を握った、これが嘘というなら自決すると言い、王を脅したのです。王はついにホドン王子を叱りつけました。ホドン王子は考えました。言い訳をすると王妃の嘘がばれてしまい、父と王妃の仲が悪くなる、自分が犠牲になれば父も王妃も弟も幸せになるのではないだろうか……。そう考えたホドン王子は、ナクラン姫を想いながら自ら命を絶ちました。





ドラマやアニメにもなった「ホドン王子とナクラン姫」



ナクラン姫が住んでいたのは、今の中国と北朝鮮の境界あたりです。大武神王は領土拡張に熱心な王様で、高句麗の南にある小さな国々を攻めました。その中のひとつが、楽浪国だったのです。ホドン王子が姫に会いに行くには鴨綠江(アプログガン)を渡らなくてはなりません。王子が自決した場所も、鴨綠江上流あたりだと言われています。鴨綠江は中国と北朝鮮の間を流れる大きな川で、長さは803kmにも及びます。水の流れが激しく、真冬でも凍らないほどだそうです。敵の動きを監視して自ら鳴り出すという「自鳴鼓」は不思議ですが、今から2000年近くも前の古代には、そういう太鼓があったのかもしれませんね。


「ホドン王子とナクラン姫」は、韓国ではミュージカルになったり、60年代にはドラマ化もされています。有名なのは1990年に北朝鮮で制作された長編アニメです。北朝鮮を代表するアニメ作品として、海外でも研究対象になっているほどの話題作です。大人も楽しめるアニメだと評判が高いので、日本でも観られるチャンスがあるといいですね。


ドラマ『太王四神記』も、とても切ないラブストーリーだそうです。ナクラン姫になった気持ちで、ペ・ヨンジュン演じる太王・ダムドク王子様の活躍を見守りましょうね!

   – BY  趙章恩

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第11回:高句麗昔話「バボオンダルとピョンガン姫」


予習してさらにハマる太王四神記

【第十一回】

高句麗昔話「バボオンダルとピョンガン姫」




韓国人なら誰もが知っている物語



韓国人なら誰でも知っている昔話の「バボ(バカ)オンダルとピョンガン姫」。逆玉の輿とでも言うべきストーリーですが、実在した人物の悲しいラブストーリーなのです。いろんな小説やミュージカルのモチーフにもなっているこの物語は、『三国史記』に記録されています。それではご紹介しましょう。



バボオンダルとピョンガン姫



高句麗の25代目王様、ピョンガン王(平岡王または平原王、在位559~590)時代、顔が険悪でこっけいだけど、心は優しい温達(オンダル)という男がいました。温達の家はとても貧しく、いつも食べ物を乞い母親を養っていました。ボロボロの服と履き物で市場を行き交っていたため、人々は彼を「バボ温達(バカな温達)」と呼んでいました。


ピョンガン王には泣き虫の姫がいました。王様は姫が泣くたびに、「いつも泣いてばかりでは、貴族の嫁にはなれない。今度泣いたら、バボ温達と結婚させるぞ!」と脅かしました。


姫が16歳になり、王様は貴族の高氏の家に嫁がせようとしました。すると姫は、「大王は、いつも私に温達の妻になるだろうとおっしゃいました。王様はウソや冗談を言わないものです。私はほかの人とは結婚できません」と言いました。怒った王様は「私の教えに従わないなら、私の娘にはなれない。君の勝手にしなさい」と言いました。


姫は金の腕輪を数十個持って宮廷をあとにし、ひとりで歩き始めました。道ですれ違う人々に温達の家の場所を尋ねて、たどり着きました。


家には目が不自由な年老いた温達の母がひとりでいました。姫はお辞儀をして、温達がいる場所を尋ねました。温達の母は「私の息子は貧しいので、高貴な方とお会いできるような者ではありません。今あなたからは格別な香りがし、手を触ると柔らかく、まるでふわふわの綿のようです。きっと偉い方に違いないでしょう。誰に騙されてここまでいらしたんですか? 私の息子は飢餓を我慢できず、山へ木の皮を剥がしに行きました」と話しました。


姫は温達を探して山に行きました。姫は温達とバッタリ出会い、心のうちを告白しました。温達はびっくりして、「ここは女がひとりで通るようなところではない。君は人間ではなく幽霊に間違いない。近づくな!」と叫び、逃げ出しました。


姫は後を追い、家の前で泊まって、翌朝もう一度温達の家を訪ねました。そして、温達と彼の母に今までの事情を詳しく話しました。温達の母は「我が家はとても貧しく、姫様が泊まるようなところではありません。私の息子は姫様とは婚姻できません」と断りました。


すると姫は、このように話しました。「昔から、貧しくても心が通い合えば幸せになれると言われています。それなのに、お金持ちになってからでないと一緒になれないということでしょうか?」。


姫は金の腕輪を売って畑と家、奴婢、馬と牛を買い、家財道具も揃えました。初めて馬を買いに行く日、姫は温達に「市場の馬を買わず、宮殿から使い道がないと判断されて民に売り払われる馬を買ってください。その中でも、病気にかかってやつれた馬を選んでください」と頼みました。姫は働き者だったので、大事に世話をされたその馬は日に増して太り、丈夫になりました。


高句麗では毎年3月3日、王様が狩大会を開き、捕らえた猪や鹿を天と山川の神霊に捧げる春の祭りが行なわれていました。その日は、温達も自分が育てた馬に乗って、王様について行きました。彼は誰よりも速く先頭を走り、捕獲した獲物も多かったので、王様の目に留まりました。王様は彼を呼んで名前を聞き、驚いてしまいました。


その時、後周(中国)の武帝が軍隊を引き連れ、高句麗の領土である遼東(ヨドン)を攻めてきました。温達は、王様に従い戦で勇敢に戦いました。ほかの兵士達もその気勢に圧倒され、高句麗は大勝を収めます。国中が温達に感心し、尊敬しました。


王様は喜び、温達を婿として正式に認めます。そして大兄(デヒョン)という地位を与え、寵愛しました。ですが温達は安楽な生活を拒み、将軍として国を守るため、毎日兵士と一緒に生活しました。


ある日温達は、「新羅(シンラ)が漢江の北側にある我々の領土を奪い、国民が苦しめられています。大王が私に軍使を与えてくだされば、必ず我々の領土を奪い返してみせます」と王様に申し出ました。戦に出るとき、温達は姫に「鶏立(ゲリプ)と竹嶺(ジュクリョン)の西のにある領土を取り返すまでは帰らない」と誓いました。しかし温達は、領土を取り戻す前に、峨旦城(アチャソン)の下で新羅軍の矢に打たれ死んでしまいました。


みんなは悲しみ、温達を棺桶に入れ宮殿まで運ぼうとしましたが、棺桶はびくともしません。姫が峨旦城まで来て、涙を流しながら「生と死はもう決まってしまいました。安心してお帰りください」と話しかけると、やっと棺桶が動きました。

   – BY  趙章恩

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第10回:『太王四神記』の紋章になった「三足烏」の秘密


予習してさらにハマる太王四神記

【第十回】

『太王四神記』の紋章になった「三足烏」の秘密






太陽に住む神聖な黒い鳥



済州島(チェジュド)の猫山峰(ミョサンボン)観光地区にあるドラマ『太王四神記』野外セットに行くと、ある鳥のマークが紋章として使われているのが目に入ります。この鳥は高句麗を象徴し、太陽の中に住んでいると言われる三足烏(サムジョッオ)です。もちろんデザインはそれぞれ違いますが、『朱蒙(チュモン)』や『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』など、高句麗を背景にしたドラマには必ず登場する紋章です。
どうして三足烏が高句麗の象徴になったのか? それは1500年ほど前に建てられた高句麗時代の古墳壁画に、必ずといっていいほど三足烏が登場するからです。当時、高句麗の2番目の都市だった中国吉林省集安にある古墳の天井を見ると、右には太陽を象徴する三足烏が描かれた円が、左には月の神であるヒキガエルが描かれた円があり、東には龍、西には蛇、北には星が描かれています。太陽と月の間には、菩提樹が風に揺れているような絵も描かれています。このほかにも、高句麗の遺跡や遺物には、この三足烏が頻繁に登場します。


遥か古代から東アジアでは、この太陽に住む神聖な黒い鳥が神のメッセンジャーとして広く崇拝されていたので、これは高句麗だけの文化とは言い切れません。しかし、高句麗の三足烏は、ほかの国の三足烏とは違う特徴を持っているんです。三足烏は足が三本あるカラスだとよくいわれますが、高句麗の三足烏はカラスではなく、頭に冠がついた黒い鳥で、龍を餌にするほど強くたくましい最強の鳥なのです。高句麗人は、「我々は神に選ばれた民族だ」という自負から、この太陽の鳥を大事にしていたのではないでしょうか。





  • 高句麗時代の古墳壁画に描かれた黒い鳥「三足烏」(中央の円の中)。












高句麗の「三足烏」が日本に?



日本サッカー協会の紋章にも三本足のカラス「八咫烏(やたがらす)」が使われているため、「高句麗の三足烏と同じ鳥なのではないか?」、「三足烏は日本の象徴なのではないか?」と疑う意見もありますが、よく見ると日本の八咫烏は頭に冠がありません。日本の三足烏はカラス、高句麗の三足烏は想像の中の黒い鳥なので違うという説もあれば、高句麗を建国した朱蒙(チュモン)の息子、沸流(ビリュ)と温祚(オンジョ)が建てた国が百済なので、高句麗の象徴が当時百済と交流が活発だった日本にも伝わったという説もあります(ちなみにドラマ『朱蒙』の中では、沸流と温祚は朱蒙の子ではないという設定です)。一方では、古代東アジアで広く太陽を崇拝していたので、日本や中国でも同じく三足烏の伝説が残っているという説もあります。


1363年に韓半島の歴史記録をまとめた『ダングンセギ』には、「紀元前1878年、宮廷の庭に黒い鳥が飛んできたが、その翼の長さは三尺もあった」という記録があります。韓民族は、紀元前数千年も前から生命の象徴である太陽と月を崇拝していました。高句麗は、太陽の中に住む神鳥として、三足烏という想像の鳥を民族のシンボルにしたのかもしれません。





「三足烏」は天と地と人の象徴



高句麗の古墳壁画に頻繁に登場する三足烏。その冠は数字の1と水や太古の生命を、翼は数字の2と和合、均衡、夫婦、温かみを、3本の足は数字の3と自然の生命、循環、夫婦の間で生まれた子供、完成、力を象徴します。3は天と地と人を表わす天の数字でもあります。


一部には、三足烏は中国の象徴で、高句麗がそれを真似たという主張もありますが、高句麗は中国の唐と対立し何十回も戦を繰り返していただけに、敵のものを真似て自分の象徴にするのは可能性の低い説かもしれません。


「高句麗の黒い鳥はカラスだ」「いや、カラスではなく想像上の鳥だ」と意見は分かれるところですが、カラスに関しては、高句麗と今の韓国で認識が違うところがあります。韓国人はカラスは凶鳥として嫌い、都会では滅多に見かけることのない鳥となりました。一方、高句麗人は、カラスは死体を食べるので、霊魂を天へ導き来世で生まれ変われるようにしてくれる吉鳥と考えていたのです。高句麗を滅亡させた新羅にとって、高句麗を象徴する黒い鳥を好きになれるはずはなく、統一新羅時代から高麗時代、朝鮮時代と時を経る中で、いつしかカラスは縁起の悪い鳥だと思われるようになり、それが今でも影響を及ぼしているのではないかと推測されています。


『太王四神記』で登場する三足烏の紋章を見ていると、頭に冠がついた足三本の黒い鳥はとても神秘的で威厳に満ちていて、賢く潔かった高句麗人の魂を少しは分けてもらえないかな~と、ボーッとしてしまいます。アクセサリーにしてずっと身につけていたい! と思いませんか? 『太王四神記』公認グッズとして発売されるのが待ち遠しいですね。

  – BY  趙章恩

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サムスンが人材確保に躍起になるワケ

サムスン電子(サムスン電子)は10月、日本の慶応義塾大学とよく比べられる私立の名門、延世(ヨンセ)大と大学院に携帯電話専攻設立協約を結び、2007年から毎年、修士課程20人、博士課程8人を携帯電話の専門家として養成することにした。これを皮切りに、サムスンは韓国の主な大学と携帯電話専攻提携を広げていく計画だ。

専門家育成カリキュラムを専門大学で実施


 さらに韓国で初めて4校の専門大学とも提携し、サムスンが要求する半導体設計専門家、設備エンジニアを育成するカリキュラムを組んでいる。2007年2学期から大学ごとに30人を選抜し、半導体部門の「設計専門家」と「設備エンジニア」を養成するため「半導体技術教育プログラム(STEP : Semiconductor Technical Education Program)」を実施し、サムスンの就職に向けた教育プログラムを行う。こちらも同じように奨学金を支援する。サムスンの系列会社もそれぞれ大学と協力し、LCD、LED、セラミック、イメージセンサーモジュール、無線技術、部品の国産化、新素材開発を支援している。


 人材育成にここまで力を入れているのはサムスンくらいのもの。他の大手企業も奨学金制度こそあるが、サムスンほど大きな金額ではない。LG電子では大学生のグループを対象に、海外に出向いて調査を行い、その調査結果で優勝した学生はLGに入社できるという制度を運営しているが、規模は年々縮小している。


 サムスン電子の関係者は「大学での教育は現場のIT技術の早さに追いついていけない。毎年6000人以上の理工学部の新卒を採用し、800億ウォン以上を投資して再教育している。やっと会社の人間として使えるようになるまでには平均2年半もかかる。大学と提携してオーダーメイド式に人材を養成し、採用後すぐ実力を発揮してくれる高級人材を確保できるならば、授業料全額や生活費支援なんて安いもの。韓国の携帯電話産業を世界一にするためにも産学連携は絶対に必要だ」と話している。


国を代表するエリート


 サムスン電子は創意的、挑戦的、専門的なグローバル人材を自社の人材像としてよく話している。そして、同社の人材採用での選別は徹底していることから、韓国国内ではサムスン出身者=エリートという認識は強い。同社社員たちもその自負はあるだろう。


 ただ、優秀な学生を選び支援して会社に必要な人材として育てるのはいいけど、自由な発想を育てる期間であるはずの大学時代に、ここまでサムスン、サムスン、といわれてしまうと創意もなければ挑戦もないんじゃないかという気もしてくる。就職教育ばかりで学生時代の楽しさがなくなるというもの、学生にとっては不幸だ。


 就職難からか、この頃の韓国の大学生たちはサークル活動もせず、ノートの貸し借りもせず、とにかく優秀な成績を残すために必死になりすぎている。10年前まではレポートや試験前になれば図書館に集まってアドバイス(もちろん無料)してくれていた先輩たちが、今ではレポートや試験でいい点数を取るためのノウハウをネットで売買をしている。人間味がなくなったというか、競争のしすぎというか。もちろん遊ぶ人もいるだろうけど、今では、それは一部の姿となりつつある。


 企業側が、ここまで徹底して大学で人材を育成したいという気持ちもわかる。特に韓国は徴兵制が残っているから男性は大学を卒業するのが日本より3年遅い。大卒新入社員が既に24~25歳を超えているので、そこからまた再教育となれば社員として一人前になるのは27歳を超えてからとなってしまう。二浪、三浪していると、本格的なスタートは30歳を超えてしまう場合だってある。これは確かに企業の負担も大きい。楽しい大学時代を保証しつつ、専門人材としての養成を受けられる、この両方は選べないものか。


(趙 章恩=ITジャーナリスト)

日経パソコン
2006年11月28日

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サムスン電子の究極の青田刈り

2007年から韓国の私立大学2校に携帯電話学科が新設される。サムスン電子は96年からサムスンが財団になっている「成均館(ソンギュングァン)大学」と提携し、2007年1学期から水源(スウォン)キャンパスで携帯電話学科大学院を設立運営することにした。毎年修士課程40人、博士課程12 人を募集する。7~11月行われた選考では1次12人募集に99人、2次28人募集に266人が志願し、9.1の倍率となった。他の学科に比べ5倍近い競争率となった。

合格すれば授業料免除、生活補助、卒業後の就職も保証


 ものすごい競争率の秘密はサムスン電子の破格な優遇にある。合格さえすれば授業料全額免除、毎月100万ウォン以上の生活補助費が支給され、卒業すればあの憧れのサムスン電子情報通信総括に入社、携帯電話関連研究開発(R&D)の業務を任されることになる。サムスン電子は大卒新規採用の給料が高いことでも有名で、キャリアのSKテレコムと並び、最も入社したい企業の1、2位を争っている。サムスン電子の携帯電話は「Anycall」というブランドで販売されている。8月には世界で初めて4Gを発表するなど、技術開発力を強化している。韓国国内では、高品質高価格路線が成功し、他の携帯より2倍はする値段にもかかわらずシェア1位をキープしている。中国でもAnycall携帯が富裕層のステータスのようになっていて、コピー携帯もかなり出回っているそうだ。


 これだけの待遇だからやはり入学試験はサムスン入社試験よりも難しかったらしい。書類審査、教授面接、サムスン職務能力試験(SSAT)、サムスン電子面接の 4つの関門を突破しなくてはならないが、特に面接とSSATは新入社員面接と同じレベルで、大学での成績がオールAで、TOEICで満点を取った人も落ちたほどだ。


 携帯電話学科は、Human Interface、Connectivity、Embedded Software、Mobile Platform、Mobile Healthの5つの研究グループで構成される。チェ・ヒョンジン携帯電話学科長は「部品の製造方法ではなく、どのような組み合わせで最高の携帯電話を作れるのかというシステム技術を研究する大学院。研究だけに没頭できるようサムスンも学校も支援を惜しまないつもりなので、その分携帯電話狂いともいえるレベルの高い学生が集まってほしい」と述べた。サムスン電子のシニア研究員や役員も各研究グループ別共同指導教授として参加し、選考から論文選定、審査、進学、就業指導を担当する。カリキュラムの詳細な運営などすべてをサムスン電子と大学側が協議して決めることになる。また学生らは在学中からサムスン電子のプロジェクトを遂行することからも、現場と大学教育の距離を幾分縮められるのではないかと期待されている。


 韓国でも学科名から「携帯電話学科」と名前がついたのはこれが初めて。去年246億ドルの輸出を記録した携帯電話は韓国全輸出の8.6%、IT関連輸出の22%以上を占める主力産業だが、今まで専門の人材を育成する大学はなく、電気・電子、電算、機械、コンピューター専攻など多様な分野から採用してから時間と費用をかけて再教育しなければならなかった。


会社の機密資料も教材に


 サムスン電子と成均館大はサムスンが財団になった96年、半導体システム工学科を新設している。博士クラスの研究員が講義に参加し、即戦力のある人材養成に力を入れ、画期的な産学協同カリキュラムと評価されてきた。会社の機密資料が教材として利用され、3年生からは現場実習もする。卒業後はサムスン電子入社が保証され、授業料、教材費全額と生活費が支援された優遇策は韓国では初めて。その魅力に引かれて、全国から秀才が集まり、合学者一人一人がマスコミに紹介されたほどだった。成均館大は「企業に牛耳られるみっともないサムスン大学」と嫌がらせをうけたこともあったが、今ではサムスンの惜しみのない支援のおかげで全国から成績上位3%以内の優秀な学生が集まる名門大学へ成長できた。


 サムスン電子は成均館大のほか、全国の名門大学14校と情報通信トラック(Track)を組み、授業料全額支援で優秀な人材を優先的に確保している。さらに、工学部を対象に3年生までにサムスン電子が要求する教養科目と、4年生の1年間はコンピューター通信ネットワーク、コンピューター通信システムといった「情報通信トラック科目」の中から2科目以上単位を取った学生を採用で優先する。これは、年間1000人以上の学生が対象となっている。


 一方で、サムスン電子は各大学に教科課程開発費2億ウォン、機材費2億ウォンに、毎年追加で4千万ウォンずつ5年間で2億ウォン、機材交換費1億ウォン、合計5年間7億ウォン(約9000万円)を支援する。大学別成績優秀者20名には1年間1000万ウォンの奨学金を支給し、入社が保証する。サムスン電子情報通信総括は年間2000人を採用しているが、2007年からは情報通信トラックの卒業生から60%ほどを採用する計画だ。これだけの労力をかけることで、サムスン電子としては自社のニーズにぴったりあった人材を大学からオーダーメイドのように供給をうけるわけだ。


 さらに、サムスン電子は人材確保先を広げようとしている。これは次回、ご紹介しよう。


(趙 章恩=ITジャーナリスト)

日経パソコン
2006年11月21日

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プロゲーマーは芸能人より人気?

前回はプロゲーマーの徴兵問題を取り上げた。今回は、韓国におけるプロゲーマーの存在感の大きさを改めてご紹介したい。韓国のプロゲーマーは80年代に人気を集めた日本のファミコン名人とは全く違う存在だと思っていい。NYタイムズは2006年10月7日、オンラインゲームに熱狂する韓国の様子を紹介しながら、「イム・ヨファンのような有名プロゲーマーはニューヨークヤンキースのデリック・ジータのような人気者」、「韓国でStarCraftを知らないのはアメリカでプロフットボールチームのダラスカウボーイを知らないのと同じ」と報道した。(韓国ではデリック・ジータって誰?って反応だけど)

大手企業がプロゲームチームを運営


 9月現在韓国Eスポーツ協会に登録されているプロゲーマーは260人を超えている。大手企業がスポンサーとなっているプロゲームチームは11もある。三星電子は「カーン」、キャリアのSKテレコムは「T1」、KTFは「MagicNs」といったプロゲームチームを運営している。リーグ戦での優勝は企業の売上とイメージに直結する。このうち、プロチーム所属している選手は180人程度で、平均年齢23歳、年俸2億ウォン(約2500万円)は下らない。


 プロゲーマー企業の役員向けミーティングや大学で行われる特別講演の講師としても、その情熱と勝負に対する執念をテーマに話してほしいと引っ張りだこだ。デパートのチャリティーバザーでも芸能人よりプロゲーマーが特別招待されることが多く、小学生の間では医者と弁護士を追い越し、憧れの職業1位にまでなった。彼らは一日10時間以上も練習を重ね、ゲームを徹底的に研究し、パソコン用ゲームの開発にも参加している。


 プロゲーマーの人気を自治体の活気につなげようとするところも少なくない。釜山市は2004年世界大会であるStarCraft決勝戦を誘致し、 10万人の観客動員に成功した。オンラインゲーム都市というイメージも獲得できた。オンラインゲーム対戦専用競技場を設立しようとする自治体も多く、ソウル市は先月、韓国における秋葉原のような場所である竜山(ヨンサン)にオンラインゲーム競技場をオープンし、前回紹介した、プロゲーマー、イム・ヨファン選手の入隊前、最後のファンミーティング会場として公開した。


 プロゲーマー第一世代として歴史に残る人物となったイム選手は「プロゲーマーという夢を与えてくれた選手」として評価されている。「ゲーム狂いの引きこもり」、「オタク」、「社会的落伍者」といった偏見を跳ね返し、プロゲーマーの重要性を韓国のみならずアメリカ、ヨーロッパ、中国、台湾など世界に向けてアピールし、スターになった。彼の影響で所属チームのスポンサーであるSKテレコムは年間200億円(約25億円)の広告・マーケティング効果を達成しているとの分析もある。ファンクラブやキャラクター商品、出版物を入れると規模は更に倍増する。


次なるスター発掘へ


 7年間、韓国初、世界初の記録を更新し続けたイム選手は、「健康な体で軍に行ける私は幸せ者。軍を除隊して30代になってもプロゲーマーとして現役であり続けたい。大学院で勉強を続けプロチームの監督もやってみたいし、国産ゲームの開発にも携わってみたい」、「プロゲーマーほど競争が激しく自己管理が厳しい世界もない。私はゲームのために彼女と付き合うことも、大学生としての生活も諦めるしかなかった。これぞ自分が進むべき道と思った以上すべてをかけないと夢は叶えられない」とファンにメッセージを残した。


 オンラインゲーム業界では早速イム選手に次ぐスター発掘に取り掛かっているが、まだこれといった選手の名前は出て来ない。だが260人もいるプロゲーマーの中から新しいスターが誕生するのは時間の問題かもしれない。


 またStarCraft中心だったオンラインゲームのリーグ戦も韓国産ゲームであるNEXON社の「カートライダー」というレーシングゲームに広がっている。「カートライダー」はかわいいキャラクターのせいか小学生に人気のオンライン対戦ゲームなので、大会では小学校低学年の参加も目立っている。小学生がプロゲーマーなんて日も遠くないみたい。それなら徴兵問題もなく、長く選手としていられるからかえっていいかもしれない。




(趙 章恩=ITジャーナリスト)

日経パソコン
2006年11月7日

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第09回:高句麗が発祥の韓国代表食材「テンジャン」


予習してさらにハマる太王四神記

【第九回】

高句麗が発祥の韓国代表食材「テンジャン」




高句麗生まれの味噌、醤油



突然ですが、ここでクエスチョン。1970年代まで、韓国の家庭の常備薬はある有名な食品でした。子供の擦り傷や打撲傷、虫刺され、火傷などちょっとした傷には、これを塗って治しました。さて、その食品とは何でしょう?


答えはそうです。タイトルにあるとおりテンジャン、味噌です。


今でもおばあちゃんの知恵として、田舎では、かぼちゃの葉っぱにテンジャンを塗ったものを傷の上に載せて応急処置を施します。最初は傷がしみて痛いけれど、不思議なことにすぐかさぶたができてきれいに傷が治ります。お医者さん達は「傷や火傷にテンジャンを塗るのは逆効果だから、絶対そのようなことはしないように」と注意しますが、何百年、いや1500年以上も前から、テンジャンは食べ物でもあり薬でもありました。消化不良の時は味噌を水に薄く溶いて飲めばゲップが出てすっきりするという話は、昔々から口伝で伝わる民話にも登場します。


キムチと並び発酵食品として韓国人の食生活に欠かせないテンジャンですが、豆を発酵させて調味料に使うという発想は高句麗から生まれました。高句麗で「醤(ジャン)」、つまりテンジャン、カンジャンといった味噌、醤油を使うようになったのは、高句麗の領土であった満州と韓半島が豆の原産地だったからではないでしょうか。遺伝子や考古学的な資料から、4000年も前から韓半島では豆を栽培していたということがわかりました。「醤」というものは中国にもありましたが、韓国のテンジャンと中国の醤は作り方も違えば味もかなり違います。高句麗のテンジャンは中国にも伝わり、独特の匂いから「高麗臭」という名前を付けられたそうです。また、中国の史記『魏志東夷傳』には「高句麗人は醸造がうまい」と記録されています。



「チョングッジャン」は健康食品!



日本の味噌も歴史が長く飛鳥時代にさかのぼりますが、高句麗から伝来された豆を発酵させる方式が日本独自の原料や気候に合わせて発展し自家醸造が始まり、故郷の味として日本を代表する調味料になったそうです。味噌の語源は高句麗語でテンジャンを意味する「美蘇」「蜜祖」で、その日本語読みから「味噌」になったと、日本の百科事典や味噌関連解説書でも紹介されています。


日本の納豆のようなねばねばしたテンジャンを韓国では「チョングッジャン」と呼び、チゲにしてよく食べます。(テンジャン、テンジャンチゲについては「韓国料理大全」で紹介しています)高句麗が豆の産地だったので、高句麗人は茹でた豆を非常食として馬の鞍の下に入れて常備していました。これが馬の体温で発酵してチョングッジャンになったのがその由来です。チョグッジャンチゲは匂いがすごいので頻繁には食べられないけれど、便秘や美容にはもってこいの健康食品。粉にしたチョングッジャンを毎朝ヨーグルトに混ぜて食べたり、乾燥させたチョングッジャンにチョコや砂糖をコーティングしたものをおやつ代わりに食べたり……。便秘がひどい時はおへその周りにごま油を塗って、その上に伝統方式で作ったテンジャンをたっぷり載せてパックすると宿便が取れるなどとテレビで紹介され、ブームになりました。





  • 青とうがらしの辛味が効いたテンジャンチゲ。日本の味噌汁とは違い、沸騰させるほどに風味が増していきます。



手間ひまかけて作るテンジャン



日本に負けないほど韓国にもたくさんの種類のテンジャンがあり、家庭によって味も微妙に違います。テンジャンはやはり手作りが一番! ですが、家で作るには手間がかかりすぎます。韓国のテンジャンが中国の醤と違うのは「メジュ」を作って発酵させるところにありますが、このメジュがやっかいなんですよね。


豆を煮て潰して四角にしてわらで結び、1ヵ月ほど風通しのよいところで乾燥させます。カチンカチンになったものを30度以上のオンドルの上に置いて1~2週間ほど発酵させ、白いかびが生えてきたらメジュの完成です。かびを洗って、きれいな水と塩と一緒につぼの中に入れ熟成させます。寒い日は塩分17~18%、暖かい日は18~20%にして漬けると、45日ほどで下に沈んだ豆はテンジャン(味噌)、上の水はカンジャン(醤油)になりますが、長く熟成させるほど味がよくなるので、1年は保存してから食べます。今はキムチ冷蔵庫があるので発酵食品の保存が便利になりましたが、10年ほど前までは、高級マンションですらベランダにはずらっとテンジャン(味噌)、カンジャン(醤油)、コチュジャン(唐辛子味噌)を入れた壺がベランダに並び、韓国らしい風景を見せてくれました。


高句麗時代のテンジャンは味噌と醤油が混ざったもので、現在のような味噌と醤油を分離させたテンジャンは朝鮮時代から作られるようになりました。高句麗人はテンジャンを利用して野菜や肉を長く保存できるようにし、多彩な食材を味付けして食べるようになりました。料理はそれぞれ木を彫ったものに漆を塗った器に入れて食卓に並べ、椅子に座って食べました。


テンジャンは韓国人の食生活の基礎のまた基礎なので、工場で大量に生産されきれいにパッケージされたものより、きれいな水がある田舎で手作りされたテンジャンをお取り寄せする家庭が多いようです。地域でいうと全羅北道(チョルラプクド)の淳昌(スンチャン)が山と川に囲まれ豆の栽培が多いことから、醤類の特産地としても有名で、街中がメジュと壺だらけというほど淳昌=ジャン(醤)のイメージを持っています。



テンジャンが今に伝える高句麗文化



韓国には「●●のことは”豆でメジュを作る”と言っても信じられない」ということわざがあります。●●はウソつきだ、信用できない人だという意味ですね。「あの女性はメジュのようだ」、という言葉もありますが、これは容貌を四角くてでこぼこしたメジュにたとえ、あまりきれいでない女性という意味です。高句麗の遺跡は古墳と壁画、山城の一部しか残っていませんが、その文化や生活習慣はそのまま受け継がれてきました。


高句麗の遺産は世界遺産として登録され注目されています。韓国では1995年以降、宗廟(チョンミョ)、昌徳宮(チャンドックン)、仏国寺(プルグッサ)と石窟庵(ソックラム)、海印寺(へインサ)藏経板殿、水原華城(スウォンファソン)、支石墓(ゴインドル)、慶州(キョンジュ)歴史遺跡地区、訓民正音、朝鮮王朝実録、直指心体要節、承政院(スンジョンウォン)日記、宗廟祭礼及び宗廟祭礼楽、唱劇のパンソリ、江陵(カンヌン)端午祭などがユネスコ世界文化遺産に指定されてきました。


北朝鮮も2000年から高句麗の遺跡をユネスコに登録する準備を始め、2004年7月1日、1500年ほど前に建てられた高句麗の古墳49と、『太王四神記』でペ・ヨンジュンが演じる広開土大王の王陵碑を登録しました。これからは、テンジャンなどの高句麗の料理や食品も、無形文化財として登録されるといいですね。ドラマのロケ地としても登場する文化遺跡を訪ね、テンジャンチゲで腹ごしらえするのも『太王四神記』の楽しみ方のひとつかもしれません。



   – BY  趙章恩

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第08回:ヨン様が演じる「談德」、「広開土大王」ってどんな人物?


予習してさらにハマる太王四神記

【第八回】

ヨン様が演じる「談德」、「広開土大王」ってどんな人物?






時代を超え尊敬される広開土大王



高句麗の人々は王様の強力なリーダーシップの下、開放的で進取的、挑戦的な民族性から広い世界観を持っていました。騎馬民族らしく「武」を重要と考え、乗馬、弓に優れていました。まさにそのような高句麗人の特徴をそなえた王様が、広開土大王(ファンゲトデワン)だったといえます。韓国人が好きな言葉の一つに「浩然之気」があります。開放された自由な心、広々として屈託のない雄大な気持ちという意味の言葉ですが、韓国では、今でも広開土大王の歴史から「浩然之気」を学べとよく言われるほど、広開土大王は尊敬される人物です。


広開土大王は高句麗19代目の王様で、375年に生まれ391年に18歳の若さで王になり、413年に39歳の若さで亡くなりました。広開土大王の在位期間はたったの21年ですが、この21年が高句麗の歴史はもちろん、韓半島の歴史までも変えてしまいました。その業績は414年に長寿王(ジャンスワン)が残した「広開土大王碑(中国吉林省集安県通溝所在)」の1802文字を中心とする記録に残っています。


王になる前の名前は談德(ダムドク)、生前の王名は「永樂大王(ヨンラクデワン」、死後は「国岡上広開土境平安好太王」となりました。韓国ではこの中から「広開土」の文字を取って広開土大王、日本の歴史には好太王という名前で登場します。日本の昭和、平成と同じように広開土大王は永樂という年号を使いましましたが、これは韓国で使われた初めての年号です。





  • 広開土大王を描いた肖像画。韓国では、今でも数多くの人々に尊敬されています。












広開土大王が「太王」と呼ばれた理由



名前からも連想できるように、ドラマ『太王四神記』でペ・ヨンジュンが演じる広開土大王は、韓国の歴史上、最も韓国の領土と勢力を拡大させた王様で、「太王」と呼ばれました。広開土大王は身分の差に関係なく優秀な人材を将軍に起用し、在位期間中64の省と1400の村を手に入れ、高句麗の領土を韓国歴史上、最大規模となる今の中国吉林省にまで拡大して最盛期を迎えました。鉄の鎧を着た騎馬兵と海軍、王の親衛隊などを別途訓練させ、水陸で立体的に敵を攻撃する知略家でもあり、民をとても大切にする威厳ある王でもありました。広開土大王が領土を広げようと必死になった理由は、民の生活を脅かす異民族の侵略を断ち切り、安定した食料供給で民が住みやすい国にするためでした。


広開土大王は領土を広げただけではありません。外交にも優れ、高句麗の周辺にあった北方少数民族とも友好関係を維持しました。南へは領土を広げず、兄弟国の百済、新羅を守りました。広開土大王碑には、「悪さをする者をやっつけ、生業に励めるよう平和な国にし、国は豊かで民は裕福で太王の恩恵が天まで届いた」と記録されています。広開土大王のおかげで、高句麗は一部族の国ではなく、大帝国として成長して行きました。


広開土大王は芸術と仏教にも興味があり、平譲(ピョンヤン)にお寺を9つも建てました。王族の墓や壁画を守る官職も新しく作り、高句麗は神の子孫であるという思想も発展させました。


広開土大王は激変する国際情勢の中で、軍事、外交、貿易を活発にさせ国を豊かにした政治家として国民に尊敬され、39歳の若さで亡くなった時、高句麗人達は「天はなぜ我々を哀れにするのか」と嘆いたそうです。


歴史を振り返ると韓国はいつも侵略される側でした。高麗時代はモンゴルに何度も侵略され国土は焼かれ文化遺産もほとんど残らない被害を受けましたし、朝鮮時代には中国、ロシア、日本から次々に侵略され、1910年から1945年まで36年間、日帝強占期を送ります。韓国人にとって広開土大王は、歴代王の中で唯一受け身ではなく自ら勇敢に戦に挑み、自分の国を東アジア最強の国にした英雄として心の奥深いところで息づいています。





謎めいた女性関係も広開土大王の魅力!?



2007年1月22日から韓国の貨幣が新しくなりましたが、2005年にポータルサイト「NAVER」が実施したアンケート調査では、新しい紙幣に採用されるべき人物として、53.95%の人が広開土大王と答えたということがありました。今回はデザインとサイズだけの改定となり、残念ながら広開土大王は登場しませんでしたが、10万ウォン札が新しく作られれば、間違いなくそこには広開土大王が登場するだろうと言われているほどです。また、総合誌『月刊中央』2007年4月号は、韓国の歴史を動かした100人の人物の1位に広開土大王を選定したほど、誰もが尊敬する韓国の英雄であります。


面白いのは他の高句麗の王様に関しては、「●●姫と結婚した」というような記録が残っているのに、広開土大王は誰と結婚したという記録はなく、息子の長寿王(ジャンス)が先代が築いた太平盛大を受け継ぎ平和な国が続いた、としか残っていないことです。ドラマ『太王四神記』には、広開土大王が16歳の時に出会ったスジニという女性を愛しながらも別の女性と結婚せざるを得なかったラブストーリも秘められているようで、とても楽しみです。知れば知るほど魅力的な広開土大王と彼を支える青龍、白虎、朱雀、玄武。彼ら四神が、紀元前2333年、天から降りてきて韓民族を作ったといわれる檀君(タングン)の木がある大陸の中央を目指す道程を描いたファンタジーに、早くハマってみたいですね!


   – BY  趙章恩

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第07回:高句麗が発祥の韓国代表料理「シルトク」


予習してさらにハマる太王四神記

【第七回】

高句麗が発祥の韓国代表料理「シルトク」






高句麗で発展した蒸し器「シル」



ヨン様ファンにはなじみ深い、ロッテ百貨店 本店14階にある韓国伝統デザートカフェ「Tea Loft」。ガラスのドーム天井で、夕暮れや雨の日にはとってもステキなここの名物メニューは「一人前シルトク」です。注文してから蒸し始めるから、熱々ほかほか。粒々の小豆がたっぷりのったパッシルトク(「パッ」は小豆、「トック」は餅という意味)と、かぼちゃが入ったホバッシルトク(「ホバッ」はかぼちゃという意味)。ままごとのようなかわいい土器に入った伝統餅だけれど、初めて見たときはこの素晴らしいアイデアに感嘆せずにはいられませんでした。このまま10倍ほどの大きさにすると、韓国のお餅の基本、お祝い事がある日に台所でお母さんが大きな「シル」を取り出してはお米の粉に小豆や栗、かぼちゃなどを入れて蒸して作ってくれた「シルトク」になります。


このシルトクのシルは青銅器時代から韓国で使われていた調理道具のことで、簡単に言うと下に小さな穴がいくつか開いて取っ手が二つついた、土で作った蒸し器です。直接火にかけず、下に鍋をおいてお湯を沸かすと、シルの下の穴から湯気が入り中のものを蒸してくれるもので、昔はこの中にお米や穀物の粉を入れて蒸し、ご飯の代わりに食べたといいます。穴から穀物の粉がこぼれないよう、穴の上に大根、かぼちゃなどの野菜を薄くスライスしたものや山菜を敷きました。このシルが日常的に使われ始めたのが三国時代初期。その中でも、高句麗でその使い方が発展したと言われています。





  • デザートカフェ「Tea Loft」のパッシルトク。












熱々の食べ物が生み出した匙と箸の文化



高句麗時代の主食は米、豆、麦、粟などの穀物で、後期になるにつれて高級穀物である米の消費が増えました。高句麗初期には、お米よりは粟が主食でした。粟はお米に比べ粘り気がないため調理が難しく、食べやすいよう他の穀物と一緒に粉にして土器に水を入れて過熱し、お粥のようにして食べました。後期なるにつれ湯気で蒸して餅のようにして食べるようになり、鉄の鍋で穀物を炊いて食べる方式に変わりました。蒸して食べるという方式はそれ以前からもありましたが、高句麗時代からシルと鉄鍋の両方を利用してご飯や餅、お粥など好きなものを作って食べるようになったということです。3世紀から6世紀にかけて、高句麗は民の豊かな生活を得るため、お米の産地で有名な漢江(ハンガン)から南の忠清道(チュンチョンド)までをも高句麗の領土にします。そのため、他の国に比べ早い時期からお米を主食にしていたようです。


高句麗の古墳には鍋の上にシルが置いてある台所の壁画があり、発掘された高句麗の遺物の中にもシルがあります。韓国は昔からシルを使って作る熱々の食べ物が多かったので、東南アジアのように手で食べるよりスッカラッとジョッカラッ(スプーンと箸)を使って食べる文化が発達しました。


今ではシルトクも家で作らず街のお餅ショップで注文するか、100g単位で測り売りしているものを買って来ますが、お祝いには欠かせません。シルトクも色んな種類があって、どんなお祝いなのかによって違うシルトクを作ります。





  • 高句麗時代の壁画に描かれた「シル」。












お祝い事に欠かせない「シルトク」



特に結婚式前の結納の日には、このシルトクは重要な意味を持ちます。韓国では結納を「ハムが入る日」と呼びます。これは大きな桐の箱、または旅行用トランクに、新郎側からの贈り物と新郎の父から新婦の父へ婚礼を願う内容を書いた婚書紙やお祝いの手紙を入れて新郎と友達が新婦の家に騒がしくやってくる日で、この贈り物を入れる箱を「ハム」と呼ぶのです。それが家に到着すると、まずシルに入ったままのシルトクの上に赤いボジャギ(風呂敷)を敷いて、その上にハムを載せて礼をし、それからハムを開けて家族みんなで祝います。新婦はシルトクの上にある栗やなつめを食べ、それからシルトクを切って近所にも配ります。栗となつめは、「子宝に恵まれますように」という願いを込めて食べるのです。


引越した日や新しくお店をオープンする日は、小豆シルトクを近所に配ります。赤い小豆が魔よけになるため、悪い気運を消してくれると言い伝えられているからです。韓国では、餅はみんなで一緒に食べるものなので、挨拶にぴったりのお土産でもあります。また、子供が生まれて100日目を迎えると、お米だけで作った白くてほんのり甘いシルトクであるペクソルギを配ります。ペクは「白い」という意味と、同時に「百」という意味もあるので、子供が元気に百寿するようにという家族の願いが込められたお祝いの食べ物です。


最近は忙しい朝、パンの代わりにトックを食べた方が腹持ちも長くカロリー少な目で健康にもよいというWELL-BEINGブームから、淡白なシルトクの人気に再び火がつきました。大量に買って冷凍庫に入れておけば、朝にレンジでチンするだけなので便利ですよね。最近は「Tea Loft」の成功に刺激されてか、トックカフェといって、餅を中心に伝統飲料やデザートを出すカフェが仁寺洞(インサドン)清譚洞(チョンダムドン)を中心に増えています。


また、餅で作るトックケーキも人気が高く、子供のお誕生日にシルトクの具を果物にしたり、生クリームで飾ったトックケーキでパーティーを開くお母さん達も増えています。高句麗から始まったお祝いの日にシルトクを作って食べる習慣は、今でもしっかり韓国人の日常生活に根付いています。韓国にいらしたときにはぜひシルトクの味を確かめてみてください。


韓国のドラマは食事の場面が多いことでもよく知られてますが、『太王四神記』ではどういう料理や食事シーンが登場するんでしょうか。ドラマのストーリー以外でもチェックしておきたいところがいっぱいですね。

   – BY  趙章恩

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