「たかがネットの書き込み」と笑って見過ごすことはできないのだろうか。韓国社会は今、「ミネルバ逮捕」で大きく揺れている。ポータルサイトDAUMの掲示板に政府の経済政策に対する批判を280件ほど書き込んだ「ミネルバ」というIDの男性が、ついに電気通信基本法違反の罪で緊急逮捕され、身柄を拘束された。1月15日には証拠隠滅・逃走の恐れがあると拘束適否審請求も棄却された。
ミネルバ逮捕に対し、韓国の識者・文化人は「牛も笑ってしまうコメディー」「ミネルバに罪があるとしたら、真実を書いたことであろう」「現実とかけ離れた経済展望で国民を惑わした大統領は罪にならないのか」「私がミネルバだ、私を逮捕せよ」などと、政府の対応を厳しく批判している。
■逮捕容疑は「虚偽の書き込み」
ミネルバは電気通信基本法47条違反の罪に問われている。電気通信基本法は1983年に制定され、2008年3月まで26回改定された。47条は1996年12月30日に改定された罰則で、「公益を害する目的で電気通信設備により公然と虚偽の通信をした者は5年以下の懲役または5000万ウォン以下の罰金に処する」「自分または他人に利益を与えたり他人に損害を与えたりする目的で電気通信設備により公然と虚偽の通信をした者は3年以下の懲役または3000万ウォン以下の罰金に処する」としている。
今回の逮捕容疑は、ミネルバが2008年12月29日に行った「政府が金融機関と大手企業へ米ドル買いを禁止した」という書き込みは虚偽であり、政府は為替市場に介入していない、というもの。このミネルバの書き込みにより市場には不安心理が広がり、ウォン売り・ドル買い注文が殺到した。検察の発表には、「(虚偽の情報により)外国為替市場と国家信用度に影響を与えた」「政府は為替安定のため約22億ドルの資金を投入するしかなかった」とある。
虚偽情報を流布した容疑で逮捕された「ミネルバ」=1月10日〔ロイター〕
しかしこの発表そのものが、政府による市場介入の事実を認めたようなものではないか。政府の国際金融担当者も「命令ではないが金融機関と会議を開き、米ドル買いをしないよう電話で協力を求めたことはある」とミネルバの書き込みに信憑性があることを暗に認めている。
さらに、ミネルバが「公益を害する目的」、または「自分または他人に利益を与えたり他人に損害を与えたりする目的」で書き込みをしたという事実はまだ立証できていない。ミネルバを支援する弁護団は「表現が荒っぽいところはあったかもしれないが、誰もが知っている内容と公表されたデータを引用したもので虚偽ではない」と主張している。ミネルバの書き込みに比べれば、アナリストや政府関係者のいつも見事に外れる予測や李明博大統領の「7%経済成長公約」のほうが、よほど事実に反している。
■「ネット経済大統領」と賞賛してきたマスコミ
そもそも政府は、たかがネットの書き込みぐらいで為替市場がパニックに陥ったと本気で言うのだろうか。あのような騒ぎが起きたのは、ミネルバの書き込みを「待ってました」とばかりにそのままコピペして記事にしたマスコミがいたからだ。その記事を引用して海外のマスコミまでもが報道してしまい混乱に輪をかけた。
事実関係を確認することもなく「ミネルバが予言をしてくれた」と書きたてたマスコミ、ミネルバを「2008年を代表する人物」に選び賞を贈ることまで企画していたポータルサイトDAUMの責任は問わなくていいのだろうか。ミネルバ個人だけを悪者にして、生贄にして済ませられるのだろうか。
政府はこれまでミネルバについて何度か言及している。「間違った情報で国民を惑わしているので、本人に会って正しい情報を伝えたい」と、身元を特定済みであることをほのめかす脅しのような発言さえあった。ミネルバの書き込みはものすごいクリック数を記録し、マスコミでも大々的に取り上げられた。マスコミはこぞって「韓国の経済情勢を的確に予測するインターネット経済大統領」とミネルバを称えた。
ここから、ミネルバは個人的な意見を書き込んだ一人のネットユーザーではなく、「預言者ミネルバ」として、存在が巨大になっていった。ネットの掲示板など見ない中高年層まで「ミネルバというすごい人がいるそうじゃないか」と口にするようになり、マスコミ報道を通じてミネルバがどんな書き込みをしてきたのかぐらいはほぼ全国民が知るようになった。
ミネルバを褒め称え有名人にさせたマスコミは、逮捕後は手の平を返したようだ。彼が専門大卒で金融機関に勤めた経験はなく、独学で経済学を勉強し現在無職であることを強調しながら、「31歳ひきこもり経済大統領」「偽者にもてあそばれた大韓民国」などと攻撃している。なぜここで学歴や職業のことを問題にするのか、人権感覚すらそこにはない。
■「誹謗中傷」とは別問題
芸能人がネット上の誹謗中傷や悪質な書き込みを苦にして自殺した事件、ネットで巻き起こった米国産輸入牛肉への反対運動が大規模な反政府集会へと広がった昨夏のできごと――。韓国では確かにネットの書き込みがリアルの生活にものすごく大きな影響を与えている。しかし、影響を与えようとしたのはユーザーやネットではなく、マスコミがネットの出来事をいちいち記事にして大げさに報道したせいだと考えずにはいられない。
芸能人の自殺が何件も続いたことなどを受け、韓国ではネットの実名制度が強化され非親告罪として捜査機関がネットを監視・規制するサイバー侮辱罪の導入が議論されている。ポータルサイトでは1日に書き込める件数を制限したり、実名確認をして登録した会員に対してもう一度本人確認をしたり、再三注意を呼びかけたりしているが、今でも事情は変わらない。
しかし、今回のミネルバ事件とネットの誹謗中傷は別問題である。
検察は「ミネルバを釈放するということはサイバーテロを容認すること」と意気込んでいる。しかし、ミネルバが誰かを誹謗中傷するために書き込んだわけではないだろう(政府は自分たちを誹謗中傷していると感じたかもしれないが)。もちろん李明博大統領は就任早々、たかがネットと思っていた米牛肉問題での批判が反政府集会へ発展したという苦い経験がある。「ネットの書き込み」と聞いただけで歯軋りしたくなるかもしれないが、過剰に警戒するのは自らにも非があることを認めるようなものではないかと思わずにはいられない。
■「私はブロガーに過ぎません」とミネルバ
ミネルバが経済の勉強をしなくてはならないと思うようになったのは、IMF経済危機の時に友人の両親が事業に失敗して自殺したのを見たのがきっかけだったという。自己防衛のために身につけた知識をネットで共有しようとしたつもりが、政府のバラ色の展望とは正反対の予測ばかりになり、それがまた次々に当たってしまった。
ネットで検索したデータを引用し自分の意見を書き込んだ結果、虚偽情報を流したと容疑をかけられ逮捕された。ミネルバが逮捕されてから、ネットで活発に活動してきた「論客」たち、政府のIT政策や経済政策に苦言を惜しまなかったブロガーたちが、自分の書き込みを削除しネットから消え始めた。ネットに自然と集まっていたユーザー参加型情報が消える一方で、幼稚で悪質なデッグル(コメント)だけが残ってしまう恐れもある。
私は弁護人が公開したミネルバとの会話や面談内容を読み、悲しくなった。検察の捜査で彼に浴びせられた質問は「誰かに指示されてやったのか」「反李明博団体に加入しているのか」といったことだったという。マスコミの餌食にされ、政府には経済に悪影響を与える原因を提供した犯人扱いされ、個人情報が晒され、もう日常には戻れなくなった。
「私は自分の意見をネットに書き込んだブロガーに過ぎません。反政府主義者ではありません」「私は政治犯でも、殺人犯でもありません。縄で縛られ手錠をかけられこうして面談をしなければならないなんて怖いです。記者や政治家の方々にお願いします。これを政治事件にしないでください。オンラインに書いたことはオンラインでだけ読まれると思った私の間違いです」と訴えている。
■ユーザーあってこその「IT強国」
ミネルバ逮捕は今後の韓国のネット利用に大きな影響を与えるだろう。放送局MBCの「100分討論」という人気番組は、与党のハンナラ党に対しミネルバ逮捕をテーマとして提案した。「ミネルバの書き込みは表現の自由の範囲内であり、ネットをこれ以上規制してはならない」と主張する側と、ミネルバを逮捕した側が向き合って討論するという番組案だが、与党は「まだ捜査中の事項に関して討論すべきではない」と拒否した。
国民はネットの書き込みを鵜呑みにするほどバカではない。政府の言うことを100%信用するほど純情でもない。媒体や情報源の少ない韓国でネットは重要な情報の溜まり場であり、はけ口でもある。どうしてネットユーザーは政府を批判する書き込みに熱狂し、政府の言うことはまず疑ってかかるようになったのか。政府はまず、その理由を振り返ってみるべきだが、その余裕もないほど追い込まれているのだろうか。
韓国が今でも「IT強国」と胸を張れるのは、ITを活発に使いこなし、企業のトライ&エラーにも文句を言わず一緒にアイデアを出してくれるユーザーがどの国よりも多いからであるはずだ。そのユーザーをネットから離れるように仕向けるのは、IT強国を諦めるということにほかならない。10年後、20年後を見てさまざまな声を聞き入れる政府になってくれることを願いたい。
NIKKEI NET
インターネット:連載・コラム
[2009年1月19日]
http://it.nikkei.co.jp/internet/column/korea.aspx?n=MMIT13000019012009