第08回:ヨン様が演じる「談德」、「広開土大王」ってどんな人物?


予習してさらにハマる太王四神記

【第八回】

ヨン様が演じる「談德」、「広開土大王」ってどんな人物?






時代を超え尊敬される広開土大王



高句麗の人々は王様の強力なリーダーシップの下、開放的で進取的、挑戦的な民族性から広い世界観を持っていました。騎馬民族らしく「武」を重要と考え、乗馬、弓に優れていました。まさにそのような高句麗人の特徴をそなえた王様が、広開土大王(ファンゲトデワン)だったといえます。韓国人が好きな言葉の一つに「浩然之気」があります。開放された自由な心、広々として屈託のない雄大な気持ちという意味の言葉ですが、韓国では、今でも広開土大王の歴史から「浩然之気」を学べとよく言われるほど、広開土大王は尊敬される人物です。


広開土大王は高句麗19代目の王様で、375年に生まれ391年に18歳の若さで王になり、413年に39歳の若さで亡くなりました。広開土大王の在位期間はたったの21年ですが、この21年が高句麗の歴史はもちろん、韓半島の歴史までも変えてしまいました。その業績は414年に長寿王(ジャンスワン)が残した「広開土大王碑(中国吉林省集安県通溝所在)」の1802文字を中心とする記録に残っています。


王になる前の名前は談德(ダムドク)、生前の王名は「永樂大王(ヨンラクデワン」、死後は「国岡上広開土境平安好太王」となりました。韓国ではこの中から「広開土」の文字を取って広開土大王、日本の歴史には好太王という名前で登場します。日本の昭和、平成と同じように広開土大王は永樂という年号を使いましましたが、これは韓国で使われた初めての年号です。





  • 広開土大王を描いた肖像画。韓国では、今でも数多くの人々に尊敬されています。












広開土大王が「太王」と呼ばれた理由



名前からも連想できるように、ドラマ『太王四神記』でペ・ヨンジュンが演じる広開土大王は、韓国の歴史上、最も韓国の領土と勢力を拡大させた王様で、「太王」と呼ばれました。広開土大王は身分の差に関係なく優秀な人材を将軍に起用し、在位期間中64の省と1400の村を手に入れ、高句麗の領土を韓国歴史上、最大規模となる今の中国吉林省にまで拡大して最盛期を迎えました。鉄の鎧を着た騎馬兵と海軍、王の親衛隊などを別途訓練させ、水陸で立体的に敵を攻撃する知略家でもあり、民をとても大切にする威厳ある王でもありました。広開土大王が領土を広げようと必死になった理由は、民の生活を脅かす異民族の侵略を断ち切り、安定した食料供給で民が住みやすい国にするためでした。


広開土大王は領土を広げただけではありません。外交にも優れ、高句麗の周辺にあった北方少数民族とも友好関係を維持しました。南へは領土を広げず、兄弟国の百済、新羅を守りました。広開土大王碑には、「悪さをする者をやっつけ、生業に励めるよう平和な国にし、国は豊かで民は裕福で太王の恩恵が天まで届いた」と記録されています。広開土大王のおかげで、高句麗は一部族の国ではなく、大帝国として成長して行きました。


広開土大王は芸術と仏教にも興味があり、平譲(ピョンヤン)にお寺を9つも建てました。王族の墓や壁画を守る官職も新しく作り、高句麗は神の子孫であるという思想も発展させました。


広開土大王は激変する国際情勢の中で、軍事、外交、貿易を活発にさせ国を豊かにした政治家として国民に尊敬され、39歳の若さで亡くなった時、高句麗人達は「天はなぜ我々を哀れにするのか」と嘆いたそうです。


歴史を振り返ると韓国はいつも侵略される側でした。高麗時代はモンゴルに何度も侵略され国土は焼かれ文化遺産もほとんど残らない被害を受けましたし、朝鮮時代には中国、ロシア、日本から次々に侵略され、1910年から1945年まで36年間、日帝強占期を送ります。韓国人にとって広開土大王は、歴代王の中で唯一受け身ではなく自ら勇敢に戦に挑み、自分の国を東アジア最強の国にした英雄として心の奥深いところで息づいています。





謎めいた女性関係も広開土大王の魅力!?



2007年1月22日から韓国の貨幣が新しくなりましたが、2005年にポータルサイト「NAVER」が実施したアンケート調査では、新しい紙幣に採用されるべき人物として、53.95%の人が広開土大王と答えたということがありました。今回はデザインとサイズだけの改定となり、残念ながら広開土大王は登場しませんでしたが、10万ウォン札が新しく作られれば、間違いなくそこには広開土大王が登場するだろうと言われているほどです。また、総合誌『月刊中央』2007年4月号は、韓国の歴史を動かした100人の人物の1位に広開土大王を選定したほど、誰もが尊敬する韓国の英雄であります。


面白いのは他の高句麗の王様に関しては、「●●姫と結婚した」というような記録が残っているのに、広開土大王は誰と結婚したという記録はなく、息子の長寿王(ジャンス)が先代が築いた太平盛大を受け継ぎ平和な国が続いた、としか残っていないことです。ドラマ『太王四神記』には、広開土大王が16歳の時に出会ったスジニという女性を愛しながらも別の女性と結婚せざるを得なかったラブストーリも秘められているようで、とても楽しみです。知れば知るほど魅力的な広開土大王と彼を支える青龍、白虎、朱雀、玄武。彼ら四神が、紀元前2333年、天から降りてきて韓民族を作ったといわれる檀君(タングン)の木がある大陸の中央を目指す道程を描いたファンタジーに、早くハマってみたいですね!


   – BY  趙章恩

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第07回:高句麗が発祥の韓国代表料理「シルトク」


予習してさらにハマる太王四神記

【第七回】

高句麗が発祥の韓国代表料理「シルトク」






高句麗で発展した蒸し器「シル」



ヨン様ファンにはなじみ深い、ロッテ百貨店 本店14階にある韓国伝統デザートカフェ「Tea Loft」。ガラスのドーム天井で、夕暮れや雨の日にはとってもステキなここの名物メニューは「一人前シルトク」です。注文してから蒸し始めるから、熱々ほかほか。粒々の小豆がたっぷりのったパッシルトク(「パッ」は小豆、「トック」は餅という意味)と、かぼちゃが入ったホバッシルトク(「ホバッ」はかぼちゃという意味)。ままごとのようなかわいい土器に入った伝統餅だけれど、初めて見たときはこの素晴らしいアイデアに感嘆せずにはいられませんでした。このまま10倍ほどの大きさにすると、韓国のお餅の基本、お祝い事がある日に台所でお母さんが大きな「シル」を取り出してはお米の粉に小豆や栗、かぼちゃなどを入れて蒸して作ってくれた「シルトク」になります。


このシルトクのシルは青銅器時代から韓国で使われていた調理道具のことで、簡単に言うと下に小さな穴がいくつか開いて取っ手が二つついた、土で作った蒸し器です。直接火にかけず、下に鍋をおいてお湯を沸かすと、シルの下の穴から湯気が入り中のものを蒸してくれるもので、昔はこの中にお米や穀物の粉を入れて蒸し、ご飯の代わりに食べたといいます。穴から穀物の粉がこぼれないよう、穴の上に大根、かぼちゃなどの野菜を薄くスライスしたものや山菜を敷きました。このシルが日常的に使われ始めたのが三国時代初期。その中でも、高句麗でその使い方が発展したと言われています。





  • デザートカフェ「Tea Loft」のパッシルトク。












熱々の食べ物が生み出した匙と箸の文化



高句麗時代の主食は米、豆、麦、粟などの穀物で、後期になるにつれて高級穀物である米の消費が増えました。高句麗初期には、お米よりは粟が主食でした。粟はお米に比べ粘り気がないため調理が難しく、食べやすいよう他の穀物と一緒に粉にして土器に水を入れて過熱し、お粥のようにして食べました。後期なるにつれ湯気で蒸して餅のようにして食べるようになり、鉄の鍋で穀物を炊いて食べる方式に変わりました。蒸して食べるという方式はそれ以前からもありましたが、高句麗時代からシルと鉄鍋の両方を利用してご飯や餅、お粥など好きなものを作って食べるようになったということです。3世紀から6世紀にかけて、高句麗は民の豊かな生活を得るため、お米の産地で有名な漢江(ハンガン)から南の忠清道(チュンチョンド)までをも高句麗の領土にします。そのため、他の国に比べ早い時期からお米を主食にしていたようです。


高句麗の古墳には鍋の上にシルが置いてある台所の壁画があり、発掘された高句麗の遺物の中にもシルがあります。韓国は昔からシルを使って作る熱々の食べ物が多かったので、東南アジアのように手で食べるよりスッカラッとジョッカラッ(スプーンと箸)を使って食べる文化が発達しました。


今ではシルトクも家で作らず街のお餅ショップで注文するか、100g単位で測り売りしているものを買って来ますが、お祝いには欠かせません。シルトクも色んな種類があって、どんなお祝いなのかによって違うシルトクを作ります。





  • 高句麗時代の壁画に描かれた「シル」。












お祝い事に欠かせない「シルトク」



特に結婚式前の結納の日には、このシルトクは重要な意味を持ちます。韓国では結納を「ハムが入る日」と呼びます。これは大きな桐の箱、または旅行用トランクに、新郎側からの贈り物と新郎の父から新婦の父へ婚礼を願う内容を書いた婚書紙やお祝いの手紙を入れて新郎と友達が新婦の家に騒がしくやってくる日で、この贈り物を入れる箱を「ハム」と呼ぶのです。それが家に到着すると、まずシルに入ったままのシルトクの上に赤いボジャギ(風呂敷)を敷いて、その上にハムを載せて礼をし、それからハムを開けて家族みんなで祝います。新婦はシルトクの上にある栗やなつめを食べ、それからシルトクを切って近所にも配ります。栗となつめは、「子宝に恵まれますように」という願いを込めて食べるのです。


引越した日や新しくお店をオープンする日は、小豆シルトクを近所に配ります。赤い小豆が魔よけになるため、悪い気運を消してくれると言い伝えられているからです。韓国では、餅はみんなで一緒に食べるものなので、挨拶にぴったりのお土産でもあります。また、子供が生まれて100日目を迎えると、お米だけで作った白くてほんのり甘いシルトクであるペクソルギを配ります。ペクは「白い」という意味と、同時に「百」という意味もあるので、子供が元気に百寿するようにという家族の願いが込められたお祝いの食べ物です。


最近は忙しい朝、パンの代わりにトックを食べた方が腹持ちも長くカロリー少な目で健康にもよいというWELL-BEINGブームから、淡白なシルトクの人気に再び火がつきました。大量に買って冷凍庫に入れておけば、朝にレンジでチンするだけなので便利ですよね。最近は「Tea Loft」の成功に刺激されてか、トックカフェといって、餅を中心に伝統飲料やデザートを出すカフェが仁寺洞(インサドン)清譚洞(チョンダムドン)を中心に増えています。


また、餅で作るトックケーキも人気が高く、子供のお誕生日にシルトクの具を果物にしたり、生クリームで飾ったトックケーキでパーティーを開くお母さん達も増えています。高句麗から始まったお祝いの日にシルトクを作って食べる習慣は、今でもしっかり韓国人の日常生活に根付いています。韓国にいらしたときにはぜひシルトクの味を確かめてみてください。


韓国のドラマは食事の場面が多いことでもよく知られてますが、『太王四神記』ではどういう料理や食事シーンが登場するんでしょうか。ドラマのストーリー以外でもチェックしておきたいところがいっぱいですね。

   – BY  趙章恩

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第06回:高句麗の伝統遊びと風習


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【第六回】

高句麗の伝統遊びと風習




古墳壁画に描かれた高句麗文化の数々



国が途絶えて14世紀ほど経った今でも、高句麗の歴史は韓国文化に大きな影響を及ぼしています。高句麗文化の特徴は古墳壁画によく現われています。騎馬行列、狩猟、シルム(韓国の相撲)、踊る人、料理する人、宴会を楽しんでいる人々など、壁画には覇気溢れる高句麗文化が上手く表現されています。高句麗人は囲碁、将棋、ユッノリと投壺(弓を投げて壺の中に入れるゲーム)などの遊びを楽しみました。ユッノリは、今でもお正月に家族が集まるとよくやっている「すごろく」のようなゲームです。


またシルムと手搏(スバッ)という競技も楽しみました。手搏は素手で自分を防衛するための武術で、高麗時代、朝鮮時代を経て韓国の国技でありオリンピックの正式種目でもある跆拳道(テコンドー)に発展しました。古墳の壁画には、高句麗人の男性がシルムをしたり応援する絵が描かれていますが、今のシルムとその形式がほとんど同じなのは驚きです。韓国のシルムも土俵からはみ出た人の負けですが、衣装や技は日本とはまた違います。壁画にはこの他にも、西域から伝わったサーカスや音楽演奏会を観覧する人々の姿もあります。高句麗時代には楽器や音楽が盛んに作られただけに、自ら琴や笛を演奏するのを楽しんだ人も多かったそうです。





  • 狩猟をする高句麗人を描いた壁画。高句麗人の覇気あふれる日常が伝わってきます。



結婚式より葬儀を大切にした高句麗人



高句麗の風習の中でも、結婚と葬儀は今の韓国と全く違います。結婚が決まれば、まず花嫁の家に新郎が寝泊りする小さな家を建て、夫婦になってから子供が成長するまで花嫁の家で暮らしました。この風習は、高句麗後期になるにつれて徐々になくなります。その代わりに、男女が出会い恋愛結婚するほど自由な結婚風習が生まれました。


高句麗人は、結婚式より葬儀をとても大事にしました。たくさんの費用をかけて盛大なお葬式を開き、亡くなった人が生前に使っていた品物をいっぱいお墓の中に入れてあげました。ですが、この埋葬品を狙った盗掘が増えてくると、高句麗後期には亡くなった人が使っていた品物をお墓の横に置いて、お葬式に参加した人々に気に入ったものをプレゼントする風習に変わりました。何よりも違うのは、高句麗人は人が死んだ瞬間には涙を流して大変悲しみますが、葬儀の間にはむしろ音楽を演奏しては歌って踊り、楽しい街のイベントとして祝ったことです。


「太王四神記を見る前に知っておきたい高句麗人の精神」でもご紹介しましたが、高句麗人は来世ではよりよい世界で生まれ変わると信じていたため、死を恐れませんでした。だから高句麗人にとってお葬式とは、生まれ変わるのを祝うパーティーでもあったのです。



オンドルが普及したのは高句麗時代から



高句麗人の一般家庭の生活はどうだったのでしょう。高句麗は今の北朝鮮と中国の東部地域にあったので冬の寒さは非常に厳しく、冬を暖かく過ごせるかどうかは命に関わる問題でもありました。高句麗人は家を建てる時に下に平たい石を敷いて、その石を熱して室内を暖かくする床暖房、オンドルを使いました。オンドルの原型は紀元前5000年ごろの新石器時代に遡りますが、王室から一般住宅はもちろん、お寺、野外にある軍営にいたるまで幅広くオンドルを取り入れたのは高句麗からでした。


オンドルは今でも韓国人の生活にはなくてはならない存在で、マンションでも一戸建てでも食堂でも、ボイラー式のオンドルで暖房をし、床から天井までほかほか暖かい冬を過ごせます。田舎の旧家に行くと、まだ薪を焚いて石を熱する昔からのオンドルが残っています。


びっくりなのは、こんなに素晴らしい暖房施設があったにも関わらず、高句麗人は寝室だけ靴を脱いで入るオンドルにし、他の部屋は靴を履いたまま出入りしやすいようテーブルに椅子という生活をしていたことです。騎馬と農耕民族の間でとても活動的だった高句麗人にとって、寒さをしのげる住居よりも、より動きやすい住居の方が大事だったのかも。暖かいオンドル部屋で本を読んだり、ご飯を食べたりする座敷生活は朝鮮時代から始まりました。


ドラマ『太王四神記』の主人公・ダムドク(ペ・ヨンジュン)が住むのはどんなお城なのか、どんな部屋なのか気になりませんか? そして、高句麗人の武術を披露してくれるダムドクの凛々しい姿を想像するだけでドキドキしてしまいますね


   – BY  趙章恩

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第05回:三国時代のトレンドをリードした高句麗人


予習してさらにハマる太王四神記

【第五回】

三国時代のトレンドをリードした高句麗人




高句麗人はおしゃれ好き



高句麗人は、中国や百済、新羅でも有名なおしゃれ好き民族だったそうです。まずは衣装からチェックしてみましょう。歩くのが走るように速かったという高句麗人は、馬に乗って大陸を走り回った民族でもあります。服も馬に乗りやすいよう活動性が重視され、動くのが楽なバジ(パンツ)とチョゴリ(上着)が男性の基本衣装でした。男性でもチマ(スカート)を着た中国人とは違い、高句麗は北方遊牧民のようなパンツ(ズボン)を好みました。女性たちはギャザースカートとセクドン(韓服のデザインによく使われる色とりどりの布をストライプ柄にパッチワークしたもの)スカート、ドット柄スカートなど多様な模様のものを好みましたが、時には楽なパンツもはきました。また上着は派手な文様が飾られたドゥルマギ(韓服のコート)を着ました。


高句麗ではシルクの錦繍が生産され、毛皮、皮、麻、綿など衣服材料も豊富に利用して、美しくて楽に着られる服が作られていました。染色技術が発達していたため、王室や貴族はもちろん、奴婢までも色と柄が派手な衣装を着たという記録があるほどです。皮で作り金の飾りをしたベルトや、色んな種類の帽子も身につけていました。王様はとても大きくて華麗な金の王冠をかぶったといいますから、かなりの派手好き民族だったようです。高句麗建国神話をドラマ化した『朱蒙(チュモン)』でも、出演者らが「衣装や王冠が派手できれいなのはいいけど、重すぎて頭がくらくらする」と愚痴をこぼしたそうです。体力がないとおしゃれもままならないのかもしれません。



ヘアースタイルにもこだわった高句麗人



男性のヘアースタイルは、きれいに整えたサントゥ(髪を束ねて頭の上に棒のように載せたちょんまげのようなヘアースタイル)でした。その上に身分や職業を象徴する帽子をかぶり、鳥の羽を飾るのが当時のトレンドだったそうです。『太王四神記』のペ・ヨンジュンは長い髪を後ろに留め、風にふわふわなびかせるスタイルですが、映画『スキャンダル』で見せてくれたあのサントゥのほうが、より歴史的事実に近いんですね。でも後期になるにつれ、男性でも長い髪をなびかせながら狩りをする絵が残っているので、ヨン様を通して高句麗人の色んなおしゃれを見せてほしいものです。


女性は鬢下垂(ビンハス)といって、髪を後ろに留めては耳の横だけ一筋長く横髪を垂らすヘアースタイルが好きで、壁画にも残っています。このヘアースタイルは顔が細く見えると、百済や新羅の女性達も真似をしたそうです。また貴婦人達は自分の地位をアピールするため、部分かつらで優雅なアップスタイルを好み、金の飾りも多くつけました。また、頭の上と横に髪で3つのおだんごを作り、後ろはストレートに垂らしたり、二束に分けて三つ編みにした髪を楕円形に結ぶといった凝ったスタイルなど、あれこれアレンジするのが大好きだったようです。壁画には侍女もヘアーバンドのようなものをしていたり、毛先が外側にはねたポニーテールだったり、それぞれ身分に合わせて精一杯工夫し、おしゃれの手を抜きませんでした。「この頃の高句麗ではこういうスタイルが流行っている」など、高句麗の流行トレンドを調査した中国の記録も残っているそうで、高句麗人はおしゃれのお手本だったんですね。





  • ヘアースタイルを鬢下垂(ビンハス)にした高句麗時代の女性。



三国時代からおしゃれ上手だった韓国女性



また、お化粧が本格的になってきたのも高句麗時代からでした。それ以前は豚の油を塗り肌を守る程度だったのが、女性達は花びらを蒸して粉にしたものを油で溶いて塗る紅を使い、顔は白く眉毛も墨でくっきり描きました。おしろいは花の種、米、真珠を粉にしたものが使われていました。壁画で見ると、眉毛を細く長く描く人もいれば、短く太く描いている人もいたりと色々ですが、口紅は大体自分の唇より小さく塗るのが流行っていたようです。目の周りだけアイシャドーを塗ったように明るくするメイクもしていました。高句麗は寒い北の国なので、口紅を塗らないと唇が荒れてしまうという気候の問題も、お化粧が早いうちから普及した理由だそうです。頬も血色のいい顔にするため頬紅を塗りましたが、顔の印象をよくし、手相ならぬ「観相」をよくするためではないかという説もあります。


高句麗の僧侶「曇徴」(ダムジン、紙と墨を作る方法を日本へ伝播し、法隆寺の金堂壁画を描いたことでも有名な方です)が610年(推古天皇18年)に日本へ渡るとき、紅が入った器を持参してプレゼントしたのをきっかけに日本でも紅を塗り始めたという記録があります。新羅では色白がカッコいいと貴族男性も女性の真似をしておしろいを塗ったほど、高句麗を含め百済、新羅の三国時代から韓国の女性は身だしなみをとても大事にしていたことがわかります。


香も高句麗王族のおしゃれには欠かせないものでした。『太王四神記』でヨン様が愛する女性スジニに贈る香を商品化した香水が発売され、話題になってます。高句麗王族は、香りがする植物のエキスや香木を入れたお風呂に入ったり、服に染み込ませていつもいい香りが漂うように気を使っていました。


韓国の夏の風物詩「ボンスンアムルドゥリギ」は、お化粧というよりは赤い色を身につけるとお化けが寄り付かないという呪術的な意味で、高句麗時代から流行っていたといいます。ボンスンアムルドゥリギは、鳳仙花の花びらと荒い塩をついて混ぜ合わせたものを爪の上に載せ、鳳仙花の葉っぱで巻いて糸でとめて数時間置き、爪をピンクのような赤に変えるもの。鳳仙花は韓国どこでもよく咲いているので、最近でも夏になると爪を赤く染める女性や子供をよく見かけます。初雪が降る日まで爪に鳳仙花が残っていると、運命の人に出会えるというおまじない付きのイベントでもあります。おばあちゃん達の間では、水虫に効果がある(!)と足の爪を染める人も多いようです。日本にも鳳仙花は多いので、今年の夏はボンスンアムルドゥリギに挑戦してみませんか? 赤く色が濃い花びらを集めるのがポイントです。


ドラマ『太王四神記』に登場する女性たちも、壁画に残っていたあの髪形で登場するかもしれません。ダムドク(ペ・ヨンジュン)を間に、微妙な関係になるスジニとキハが繰り広げるおしゃれバトルも楽しみですね。

   – BY  趙章恩

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第04回:太王四神記を見る前に知っておきたい高句麗人の精神


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【第四回】

太王四神記を見る前に知っておきたい高句麗人の精神






三国時代、最強だった高句麗



高句麗は早くから周辺地域を征腹することに力を注いできました。仏教を受け入れ、国家の教育機関を建てて人材を養成することにも力を入れました。国家としての強い基盤を作った高句麗は『太王四神記』の主人公である広開土大王(グァンゲトデワン)と、その次の王様である長寿王(ジャンスワン)の時代に、全盛期を迎えます。広開土大王は満洲まで領土を大きく広げ、長寿王は都を今の北朝鮮の首都である平壌(ピョンヤン)に移しては朝鮮半島の南へ領土を広げ、百済と新羅を脅かしました。


三国時代、最も強かった高句麗は、何度も続いた中国の侵略を退けましたが、その中でも有名なのは乙支文徳将軍(ウルチムンドク、敵の意表をつく大胆な知略で勝ち続け、詩文にも優れた韓国人なら誰もが知っている名将)が、中国の統一王朝である隋の侵略を退けた「薩水大捷(サルスデチョプ)」や、梁萬春(ヤン・マンチュン)将軍が645年唐の50万兵士の侵略を安市城(アンシソン)でわずかな兵士で退け、唐の太宗がヤン将軍の勇猛さに感嘆し絹をプレゼントしたという記録を残した戦いです。


高句麗建国神話をドラマ化した『朱蒙(チュモン)』と同じ時期に放映された『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』も、高句麗と中国との戦が見所ですが、『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』は高句麗後期、王を殺して大莫離支(デマッリジ、今の総理のような最高指導者)になった人で、唐との戦いに負けたことがありませんでした。





高句麗軍の強さの秘密は死生観にあり!?



戦争に勝ち続けた高句麗は、中国東北地方の大帝国に成長します。高句麗が何十倍もの兵士と力のある中国に勝てた秘訣は何だったのでしょうか。


中国はその国土の大きさや人口の多さから、他の国に比べ圧倒的に多い数の兵士を動員できました。もちろん戦争は「将兵の数が多い方の勝ち!」というわけではありませんが、中国の歴史を振り返ると、人海戦術で負けたことがほとんどありませんでした。でも、中国は高句麗との戦争には、ことごとく敗れています。高句麗が中国に立ち向かい勝利できたのは、中国より優秀な武器があったのと、山城を活用した戦術のおかげといわれています。


しかし最も重要な理由は、高句麗人の生と精神にあります。高句麗の遺産の中でも最も印象的なのは、幾多も残っている墓の壁画です。エジプトや他の国の壁画と比べ、高句麗古墳の壁画は性格が全く違います。


驚いてしまうのは、壁画の登場人物がみんなとても明るく表情が豊かで、歌って踊って楽しそうにしている画ばかりということです。高句麗人は現世での生が全てではなく、肉体が消滅しても魂は天につながると信じていました。高句麗人がエジプト人と同じように来世を信じていたということは、壁画の内容が楽しく描かれていることからも伺えます。


特に高句麗の壁画には死神とドケビ(韓国伝統の鬼)、空を飛ぶ神仙と竜、鶴、鳳凰、キリンなどが登場しますが、邪悪なものや地獄の風景が全くないというのは、死を肯定的に受け入れたという兆候であるといわれています。高句麗人は来世の生まれ変わりを信じていたので死を恐れませんでした。戦闘で死んでも、より良い永遠の世界に行けるから大丈夫だという高句麗人にとって、国や家族を守るための戦争も日常のひとつだったんですね。高句麗軍が周辺のどの国の軍隊よりも強く士気が高かったのは、決して偶然ではありませんでした。





  • 踊る人々を描いた高句麗時代の壁画。このように、生を謳歌する絵柄が少なくありません。












強国・高句麗の滅亡



千年の帝国ローマ、日が暮れない大英帝国……世の中に存在したどんな強大国も滅亡の瞬間を迎えます。705年の長い歴史と強力な力を持つ高句麗も、決して例外ではありませんでした。全盛期を迎えた長寿王の後から少しずつ寂びはじめた高句麗は、70年も続いた隋、唐との戦争により農地が荒れ、内乱に加え倭(当時の日本)にまで攻められました。


ここに、王の独裁政権で疏外された一部の貴族が裏切り、さらに新羅まで唐の力を借りて攻めてきました。最後の力を振り絞り、唐と新羅の連合軍と戦った高句麗は、ついに668年に敗北し、建国から705年の長い歴史の幕を閉じることになりました。高句麗を倒した新羅はその後百済も攻撃し、統一新羅時代を迎え、高麗時代、朝鮮時代へと歴史は続きます。


高句麗人の精神、そして、高句麗軍の強さは、ドラマ『太王四神記』ではどのように描かれるのでしょう? 放映が楽しみです。


   – BY  趙章恩

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第03回:高句麗が発祥の韓国代表料理「プルコギ」


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【第三回】

高句麗が発祥の韓国代表料理「プルコギ」






プルコギの原型は高句麗の「貊炙」



キムチと並び韓国を代表する料理「プルコギ」。プルコギの由来についてはいろんな説がありますが、高句麗時代の「貊炙」(メグジョッ)がプルコギになったという説が最も有力です。高句麗は騎馬民族で非遊牧民、一定した住居を持ちながら畑も耕し、狩りもしました。貊炙は「にんにく・醤油・味噌などで味付けして壷に入れておいた肉を串に刺して炭で焼いて食べるもの」でした。中国の古書に「晋の国(265~316)の人たちは異国の貊炙を食べ過ぎるので問題」とまで登場するように、貊炙は高句麗から中国、百済、新羅に広がっていきました。古墳の壁画には、串に刺した肉を保存する肉庫が台所の隣に描いてあります。


高句麗の人たちは肉だけを食べていたわけではなく、鉄で鍋を作り米や穀物を蒸してご飯を食べたり、唐辛子が入っていないキムチ、つまり白菜と大根、にんにく、ねぎ、しょうが、塩で発酵させたキムチも食べました。唐辛子が韓国に入ってきたのは朝鮮時代中期です。おやつとして、桃をはじめとする果物もあれこれ食べていたようです。





肉と酒は高句麗人の必需品!?



高句麗は国民の同盟を何よりも大事にする国でした。毎年10月には、盛大な「同盟祭り」が開催されていました。高句麗の建国を祝い、王様から貴族、農民まで身分に関係なくみんなが集まり、夜遅くまで飲んで食べて歌って踊った愉快な祭りでした。戦が多かったけれど、人生を楽しむゆとりもあったんですね。


古墳の壁画にも楽器を演奏する人、踊る人がよく登場します。シルム(韓国の相撲)、猿回しや玉投げなどサーカスのような公演、鬼ごっこ、囲碁、ユッノリ(伝統遊びで、お正月になると家族が集まり楽しむゲーム。木で作った5本の棒「ユッ」を投げ、裏表の組み合わせで1~5までの数字が決まり、ノリパンの上のこまを動かして先にゴールしたチームの勝ちですが、地方ごとにルールが違い、実際ゲームをしてみるとスリル満点)、サッカーのようなチュックックという遊びや、伝統武術テクォンドの原型になったスバクという武芸を競い合う場面も描いてあって、本当に楽しそうです。


身分、性別、年齢に関係なくみんなが一緒になって盛り上がる高句麗の精神は、2002年ワールドカップの街角応援を思い出せばよくわかると思います。こういう祭りに欠かせないのが肉と酒だったようで、高句麗時代からすでに酒を専門的に造る村があり、これを売買したと記録されています。





地方色豊かなプルコギ



統一新羅時代を経て高麗時代になると、仏教の影響から肉をあまり食べなくなりました。その後、モンゴルに侵略され支配された高麗後期になると貊炙は再び一般的な料理として定着しました。串で刺して焼かず、網で焼いたり鍋で焼いたり、焼く方法は時代によって変わりました。肉もいのしし、豚から牛肉へ変わり、今でもプルコギ、カルビといえば牛肉です。


朝鮮時代にはこれが宮中料理「ノビアニ」に発展しました。ノビアニは肉を平たくのばし、包丁で細かく刻みを入れ、やわらかくしてから焼く料理で、味付けされた薄いステーキのような、プルコギとはまた違うものでした。ヤンバン(貴族)の間では雪降る夜に部屋の中で焼いて温かく食べる季節料理として、プルコギやカルビが好まれました。


プルコギは地方によって味付けや焼き方が微妙に違います。ソウルでは、きのこと味付けされた薄い牛肉を専用の鍋に入れて焼いて、鍋の端にたまった肉汁を一緒にご飯にかけて食べるのが普通のプルコギです。全羅南道のグァンヤンプルコギは、形はプルコギですが、炭と網を使いカルビのような焼き方をします。味もソウルよりしっかりしていて、カルビよりやわらかく食べやすいため、全羅道を代表する料理になりました。


牛肉の値段が高かった韓国では、ごちそう、おもてなしといえばプルコギでしたが、輸入肉が安く手に入るようになってからは、スーパーで味付けされたプルコギを買ってきて焼くだけのお手頃で手軽な料理へとイメージが変わってきました。日本でも和牛が高級であるように、韓牛(ハンウ)のプルコギやカルビは値段も数倍高く、今でも高級料理です。


プルコギの原型「貊炙」。ドラマのシーンで登場するか要チェックです!

   – BY  趙章恩

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第02回:高句麗ゆかりの地は、どこにあるの?


予習してさらにハマる太王四神記

【第二回】

高句麗ゆかりの地は、どこにあるの?






今、高句麗が熱い!



高句麗は中国東北部と北朝鮮が中心地だったため、遺跡の多くは中国と北朝鮮にあります。


ここ数年、中国が高句麗を自国の歴史と解釈し、自国の文化遺産としてユネスコに登録したため韓国との文化摩擦が起きています。その中でも問題になっているのは、中国吉林省集安県にある「広開土大王碑」です。この碑石は『太王四神記』でヨン様が演じる広開土(グァンゲト)大王がどれほど領土を広げ、素晴らしい王様だったのかを記録して残すため、息子であったジャンス王が建てられました。


韓国に残っている高句麗ゆかりの地は北朝鮮と地理的に近いソウル、京畿道北部、百済に進撃し領土を広げた時の名残として南漢江が流れる忠清道にあります。高句麗は700年以上続いた国家ですが、紀元前から7世紀にかけての古代遺跡のため、残念ながら現在まで残っているものは城壁、古墳の壁画、碑石、仏像などで数もあまり多くありません。でもドラマをきっかけに韓国では高句麗ブームが巻き起こっているため、自治体ごとに高句麗祭りや博物館、ロケ地開発に力を入れています。





峨嵯山(アチャサン)



峨嵯山はソウルウォーカーヒルホテル裏にある山頂まで300mちょっとの山です。高句麗と新羅が漢江を間に熾烈な戦争を繰り広げた山城があるところです。2004年遺物が大量に発掘されたのをきっかけに高句麗ゆかりの地として訪問者が増えています。この山城で発掘された遺跡の中には、韓国固有の暖房設備であるオンドルに使われた平たい石もありました。兵士が寝泊りした部屋はオンドルになっていて、台所で火を焚けばその熱気が床の下に作ってある通路に伝わり熱が蓄熱され、ゆっくり放熱しながら湿気をなくし部屋中が温かくなる設備です。


登山路がきれいに整備され木の階段を登っていけばソウルが一望できる山頂に到着できるため、ソウルでちょっと山登りでも、というときにぴったりの場所です。



アクセス


地下鉄5号線峨嵯山駅下車、峨嵯山公園から山城へ行く登山路があります。





丹陽 オンダル山城



バボオンダルとピョンガン姫の物語で有名な6世紀の名将オンダル将軍が590年新羅との戦で戦士したところで、南漢江を見下ろす山頂にハートの形をした城壁が残っています。高句麗が築いた山城を新羅が占領し、これを取り戻すための戦争でした。


オンダル将軍が戦士した場所についてはソウルの峨嵯山(アチャサン)という主張もあり、両方とも高句麗ゆかりの地として開発されています。


山城の近くには4億5千万年太古の神秘がそのまま残っているオンダル洞窟と高句麗展示館もあります。


毎年10月にはオンダル文化祝祭(オンダルカルチャーフェスティバル)が開催され、オンダル将軍・ピョンガン姫コンテスト、オンダル将軍鎮魂祭、高句麗武芸再現、弓大会、伝統婚礼、高句麗料理試食会などのイベントが開催されます。この地域は秋の紅葉がとてもきれいなことでも有名なので、ぜひ訪れてみたいですね。


オンダル山城と洞窟、展示館などはオンダル国民観光地内にあります。高句麗後期を背景にしたSBSドラマ「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」の野外セットもここにあります。高句麗のお城や街並みなどが再現されてますが、「太王四神記」とはまた違う雰囲気です。



入場料 大人3000W、青少年2000 W、子ども1000 W


アクセス


東ソウルバスターミナル グインサ行きバス 1日12回運行





  • 中原高句麗碑(ジュンウォンゴグリョビ)





















中原高句麗碑(ジュンウォンゴグリョビ)



忠清北道忠州市可金面南漢江沿いにあり、韓国に残された唯一の高句麗碑石で国宝第205号に指定されました。広開土大王の子である長寿王が忠清道まで領土を広げたことを記念し、この土地が高句麗のものであることを表示する碑です。この碑には新羅との領土争いで仲直りしたという内容が書かれてます。近くには民俗工芸村、統一新羅時代の遺跡で国宝第6号の塔坪里七層石塔もあります。中央塔とも呼ばれ、周辺には中央塔彫刻公園や忠州博物館、お酒博物館もあります。忠州市には忠州湖、水安堡温泉などの観光地もあり、ソウルから2~3時間ほどで行ける水の観光地として有名です。また忠州はUN(国連)バン・ギムン事務総長の故郷としても親しまれています。



彫刻公園入場料


博物館は無料


アクセス


東ソウルバスターミナルまたは江南高速バスターミナルから忠州行きバス


忠州ターミナルから中央塔まで市内バスまたはタクシー利用


忠州ターミナルはロッテマートが目印です。





チェジュ 猫山峰観光地区



みなさんもすでにご存知の「太王四神記」の第1野外セットが建てられたところです。韓国でもここまで繊細に作られた野外セットは初めてであると、マスコミに絶賛されました。第2野外セットは北チェジュのソンブルオルム一帯にあります。


チェジュは韓国の数々の映画、ドラマが撮影されたところで、島全体が観光地です。


最近は韓国でも新婚旅行は海外が当たり前ですが、70~80年代の新婚旅行のメッカはチェジュでした。今でも新郎が軍人で海外に行ってはならない、忙しくて新婚旅行に行けないカップルはチェジュのリゾートを訪れます。「中文(チュンムン)リゾート」にはドラマ『オールイン』で印象的だったロッテホテル、新羅ホテル、ハイアットホテルがあります。


猫山峰観光地区には11月完成を目標にゴルフ場、宿泊施設の工事が続いてます。パークBOFチェジュもオープンしたことですし、『太王四神記」』とヨン様、といえばチェジュ! で決まりですね。



アクセス


チェジュではレンタカーもしくはタクシー貸切観光が便利


「太王四神記」野外セットはタクシー以外アクセスできる交通便がありません。いたるところに案内看板があるので、レンタカーでも迷うことなく探せます。





国立中央博物館考古館、3階美術館



高句麗の仏像と瓦、銅で作られた靴、古墳、壁画など中国にある遺跡のレプリカが展示されています。


国立中央博物館の紹介ページ





日本で見つけた高句麗の名残、高麗神社



埼玉県日高市は韓国でも有名な高句麗ゆかりの地であります。高句麗の王族が666年1799人の人を連れて日本へ渡り、稲農作を始めたところで、国が滅亡した668年、日本に残り「高麗」という苗字を使います。日高市にある高麗神社は高句麗の王様を祭る神社で王族59代目の宮司がいらっしゃいます。高麗神社では高句麗の歴史を継ぐ神社として、毎年10月在日本大韓民国民団の「マダン祭り」が開催されてます。


ホームページの説明によると「特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と崇められるようにもなりました」とのこと。「出世明神」とは、強力なリーダーシップとオープンマインドで尊敬された高句麗の王様のご利益らしいですね。


アクセス


JR八高線・川越線「高麗川駅」から徒歩20分


   – BY  趙章恩

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第01回:太王四神記の背景となっている高句麗っていつの時代?


予習してさらにハマる太王四神記

【第一回】

太王四神記の背景となっている高句麗っていつの時代?






古代朝鮮三国のひとつ“高句麗(コグリョ)”



高句麗は紀元前37年から668年まで実在した国です。強力な軍事力による中央集権体制で近隣の諸部族と戦いながら勢力を拡大し、現在の韓国忠清道の北から中国の北東地域までを支配しました。高句麗がこの世にあった頃、日本は弥生時代~古墳時代でした。


「三国史記」の記録によると、高句麗を建てたのは「朱蒙(チュモン)」。大きな卵の中から生まれたという神話を持つ人物です。朱蒙の誕生神話を簡単にご紹介してみましょう。河の神の娘である柳花(ユファ)はある日妹達と川辺へ遊びに行き、天帝の子である解慕漱(ヘモス)と出会い結ばれます。親の許可なく婚姻したことに怒り、河の神は柳花を太白山(テベクサン)の南に送り、ここで柳花は東扶余(ドンブヨ)、の金蛙王(グムワワン)と出会います。柳花の様子をおかしく思った金蛙王は柳花を部屋に閉じ込めますが、太陽の光を浴びて身篭り卵を産みます。この卵を金蛙王が捨てたところ、鳥や動物がやってきては卵を守り、ここから朱蒙が生まれます。










































































年表
BC70万年 旧石器時代
BC2333年 檀君、古朝鮮建国
BC1000年 青銅器時代
BC400年 鉄器時代
BC108年 古朝鮮滅亡
BC57年 新羅建国
BC37年 高句麗建国
BC18年 百済建国
42年 伽耶建国
372年 高句麗、仏教を受け入れる
384年 百済仏教を受け入れる
391年 広開土大王即位
413年 広開土大王死亡
527年 新羅法興王仏教公認
532年 新羅が伽耶滅亡
660年 百済滅亡
668年 高句麗滅亡
676年 統一新羅時代
918年 高麗建国
935年 新羅滅亡
1392年 高麗滅亡、朝鮮建国
1396年 漢陽(ハンヤン、今のソウル)に都を定める
1443年 世宗大王(セジョンデワン)訓民正音(ハングル)創製


【註1】太白山(テベクサン):ソウルより北側にある江原道から慶尚北道にまたがっている韓国を代表する山。


【註2】東扶余(ドンブヨ):59年~294年、北朝鮮の豆滿江(ドゥマンガン)流域にあった国で、ヨン様が演じる広開土大王(グァンゲトデワン)によって滅びました。


【註3】金蛙王(グムワワン):大きな石の下で金色に光る蛙のような赤ちゃんが見つかり王様となったという伝説があり、このような名前になりました。





高句麗の始祖とされる王“朱蒙(チュモン)”



朱蒙は子供の頃から非常に弓が上手く、「弓の名手」という意味を持つこの名前がつけられました。これに嫉妬した金蛙の息子たちは朱蒙を殺そうとし、朱蒙は母の助言で脱出し卒本(ジョルボン、現在は中国吉林省にある綏芬河の南西地域)に至り、ここで高句麗を建てたといいいます。これは高句麗の建国神話でもあり、朱蒙は初代王様、東明聖王(ドンミョンソンワン)になりました。


長い間高句麗の首都だった卒本に建てられた国内城。その城壁は今でも中国吉林省に残っていますが、城壁の中にアパートが建ち並び遺跡が守られていないのが残念です。高句麗後期の首都は北朝鮮の平壤(ピョンヤン)で、平壤城は北朝鮮文化財1号に指定されてます。


高句麗が最も領土を拡張し全盛期を迎えたのは、『太王四神記』の中心になる4~5世紀です。『太王四神記』の主人公である広開土大王(グァンゲトデワン)が領土を広げ富強で住みやすい国を作り、息子である長寿(ジャンス)王が太平の時代を築きました。この時期日本では大和王権が形成され始めました。


当時の韓半島は大きく高句麗、新羅、百済の三国に分かれた「三国時代」を向かえ、最も領土が大きく力があったのは高句麗でしたが、三国を統一したのは中国の唐と連合した新羅でした。668年高句麗は滅亡し、王族や貴族を中心に多くの高句麗人が日本へ亡命したため、高句麗の文化は日本へ大きな影響を与えたとみられています。その後韓半島は統一新羅時代を経て高句麗の精神を継承する高麗時代が始まり、朝鮮時代、日本の植民地支配と独立を経て今の大韓民国となりました。















韓国の基礎となった三国時代、古代日本との交流も



三国時代は原始的な部族国家から始まった高句麗、新羅、百済の三国が政治制度や農耕生活を確立し、古代国家へと成長した時期で、仏教が伝来した時期でもあります。大陸の文化を固有の文化へ再創造しながら、現在の韓国の基本となった時代ともいえます。この三国の文化がまた古代日本へ伝わって飛鳥文化が生まれ、日本固有の伝統文化へと発展していったのでしょう。三国の中でも韓半島南地方にあった百済と古代日本の交流が最も活発でしたが、高句麗も日本の歴史に残る文化を伝播しています。高句麗の僧侶「慧慈」は聖徳太子の師であり、「曇徴」は紙、墨、硯、絵具をつくる技術を教えたと記録に残っています。法隆寺の金堂壁画も彼の作品として知られています。高句麗古墳の壁画にある自分の衣装や描き方は高松古墳の壁画の壁画とも良く似ていて、高句麗の影響を受けたものとみられています。またキトラ古墳の石室天井に描かれていた星宿(星座)は北朝鮮の平壤(ピョンヤン)を含む北緯38~39度から見上げた星空を描いたものであることが98年明らかになりました。高句麗滅亡後日本へ亡命した天文学者が描いたか、高句麗のものがお手本となったのではないかとみられています。


長い暦を経て、高句麗の領土は現在その多くが中国になりました。そのため高句麗の歴史を中国は中国に住んでいた部族の歴史と解釈し、城壁や広開土大王碑を中国の文化遺産としてユネスコに登録したことから、韓中歴史問題になっています。『太王四神記』には韓国の歴史を見つめ直し、歴代王の中で最もたくましく潔かった高句麗の広開土大王の精神を忘れてはならないという気持ちが込められています。


高句麗の初代王様「朱蒙」を主人公に高句麗の建国神話の物語を興味津々に描いたドラマもあります。2006年から2007年にかけてMBCで放映され31週連続視聴率1位を記録し国民ドラマになった大河ドラマ『朱蒙(チュモン)』です。4月からBSフジで放映が決まりました。これも『太王四神記』を理解するのに参考になるでしょう。SBSで放映された『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』は高句麗末期が背景で、KBSの『大祚榮(デジョヨン)」』は高句麗滅亡とその後が背景です。『太王四神記』は高句麗歴史の最盛期を描くので、戦争シーンばかりだった他の高句麗ドラマとは違って、色々なエピソードやファンタジーが盛り込まれた大作であると韓国でも大変期待されています。(第一回:終了)


韓国の歴史については「韓国を知ろう:歴史と時代」でも解説しています。


                                                                                                                                             –  趙章恩

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